×

連載・特集

[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 友田典弘さん(後編) 「オモニ」の助けで帰国

 原爆孤児となり、1945年9月に広島から朝鮮半島へ渡った友田典弘(つねひろ)さん(89)=大阪府門真市。帰国がかなったのは15年後の60年だった。当時、日韓に国交はない。実現の裏には、ある韓国人女性の助けがあった。「ヤンポンニョさん、いうんよ」。友田さんの目元がまた、赤みを帯びた。

 朝鮮戦争が起こる少し前。路上生活を続けていた友田さんは、市場でたばこやあめ玉を売る少女と出会う。時折、店番を手伝った。その母親がヤンさんだ。家のない少年をふびんに思ったらしい。一緒に住もうと言ってくれた。ただヤンさんも夫に先立たれ、市場で働く次女を含め4人の子を抱える身と知る。「僕までおったらあかん、思うて」。何も告げず、すぐに家を出た。

 再会したのは休戦後。友田さんは路上生活を脱し、パン屋で住み込みの仕事を始めていた。ヤンさんの誕生日には、自作のカステラを持参した。次女とはよく休日を一緒に過ごした。

 死と隣り合わせの日々を切り抜け、物事を考える余裕ができたからかもしれない。友田さんは帰国を切望するようになる。20歳を過ぎた頃からソウルの市役所や外務省に日参したが、取り合ってもくれない。思い詰め、死も考えた。すると、植民地時代に日本語を学んでいたヤンさんが方々に手紙を出してくれた。「僕はもう、日本語を忘れとったから。20通は超えとった」

 海を越えた訴えは当時の中国新聞で報じられた。「戸籍謄本ヲ一日モ早クトッテ下サイ」(58年11月7日付)「故郷ガナツカシクテ」(同13日付)…。その1通が広島市長の元に届き、事態は動く。ソウル市長の協力もあり、友田さんは60年6月、15年ぶりに広島の地を踏んだ。「役所の人やら記者やら、ぎょうさん人がおったよ」

 帰国後は一時、広島市内の製菓会社に勤めた。やがて韓国時代の友人に勧められ、62年に大阪へ。水が合い、腰を据えた。66年に結婚。ステンレス加工会社などに勤め、4男1女を育てた。

 母国での営みを取り戻しても、韓国の恩人を忘れることはなかった。帰国前、友人を伴ってあいさつに行った時、ヤンさんは言った。「私は息子みたいに思ってる。この子がどう思っているかは分からないけど」。友田さんは「オモニ(お母さん)と呼びたかった」と涙ぐむ。「でも実の息子が嫌がる、思うて…」

 再会を願い、90年代に入って訪韓。現地のテレビ番組に出演し、ヤンさんの死を知る。墓参し、感謝の気持ちを伝えた。

 2019年に胃がんの手術を受けた。体調には波がある。それでも証言の依頼にはできる限り、応じている。「戦争も原爆もあかん。伝えなあかんから」。韓国人の温かさにも触れる。「見ず知らずでも、同じ名字なら『家族だから一緒に飲もう』と言い合う。いい人たちよ」

 今でも韓国語の方が得意だという。日本語を聞き違えまいと、ぐっと耳を傾けてくる。「まだ疲れとらんよ。質問は?」。その瞳に使命感を見た。(編集委員・田中美千子)

(2025年6月13日朝刊掲載)

年別アーカイブ