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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2025年6月6日 月命日

犠牲者の追悼 連綿と

 2025年6月6日。西応寺(広島市中区)の副住職、平慈敬さん(43)は平和記念公園(同)の原爆供養塔前で、「月命日」のお経を上げた。あまたの犠牲者を追悼すると、10人ほどの参列者に説いた。「兵器は人を殺す道具です。でも『守る道具』と言われたとき、歯止めが利かなくなる可能性があります」

「これもご縁」

 西応寺は公園と平和大通りを挟んですぐ南側の中島町にある。80年前、当時の建物は被爆して跡形もなくなり、曽祖母は命を奪われた。復員した祖父が焼け跡に寺院を再建。境内には被爆時に欠けたと伝わる墓石が残る。

 昨年12月、供養塔での法要を続ける市民有志が読経の後継者を探していると知り、打診もされた。60年以上続けた吉川信晴さんの後に自分が務めを果たせるかどうか悩んだ末、「これもご縁」と決心した。

 1月6日から読経に臨むにあたり、両親から西応寺の被爆状況をあらためて聞いた。「声量など細かい部分はまだ不安ですよ」とこぼすが、6月6日で半年。「この方たちを忘れないことにつながる」と供養塔での法要の意味をかみしめる。

 6日の法要には、かつてインドでの原爆展などに携わった元原爆資料館長の畑口実さん(79)=廿日市市=も参列した。「供養塔に父の遺骨もあるのではと思っています」。80年前に母の胎内で被爆。広島駅そばに勤めに出ていた父は行方不明になった。

 約7万人分とされる供養塔の遺骨のうち、名前が分かっていながら遺族が見つかっていないのは813人。この中に畑口さんの父の名前はない。残る大多数の中に父の遺骨があったとしても、身元が分からないまま大小の木箱に納められており、特定する手がかりはない。

 現在、畑口さんは供養塔を管理する広島戦災供養会の会長を務め、遺骨を引き取る遺族が見つかると返還に立ち会う。「遺族の近くに戻ってほしい」と言うが、近年の例はわずか。自身も無念をかみしめながら、法要で頭を垂れる。

証言聞く催し

 同じ6日。平和記念公園から徒歩約5分のカフェ「ハチドリ舎」では原爆で父を失った被爆者の堀江壮さん(84)=佐伯区=が広島県内外の3人とテーブルを囲み約1時間半、体験を語った。

 月命日を含む毎月「6のつく日」に被爆者の証言を聞く催し。原爆資料館などでの講話に比べ、少人数で対話しやすいのが特徴。堀江さんも「自分の思いが伝わりやすい」と話す。

 催しは、店主の安彦恵里香さん(46)が17年の開店当初から続ける。茨城県出身で被爆地を身近に感じて育ったわけではないが、08年に参加した非政府組織(NGO)ピースボートの船旅で被爆者と同乗し、打ち解けた。「友人のような存在の上に原爆が落ちたと感じるようになり、腹が立ったんです」。核兵器の問題がわがこととして迫ってきた。

 催しも「被爆者と友人のような距離感」を意識する。これまで被爆者たち約20人が体験を話し、約3千人が参加した。16日、26日、7月6日…。広島の日常として続いていく。(山下美波、山本祐司)

(2025年6月16日朝刊掲載)

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