『記憶を受け継ぐ』 中川峰子さん―弟のむごい死 見届ける
25年6月16日
中川峰子(なかがわみねこ)さん(95)=広島市南区
戦争だけは絶対にしないで。折り鶴に託す
被爆当時15歳(さい)だった中川峰子さん(95)は、混乱の中で大やけどの弟を見つけ出し、いまわの際(きわ)を見届けました。12歳で逝った弟をはじめ、原爆でむごい亡くなり方をした同世代の子どもたちの慰霊(いれい)を続け、今は広島を訪れた人に折り鶴を託して平和への願いを表しています。
広島市立第一高等女学校(市女(いちじょ)、現舟入(ふないり)高)3年だった中川さんは、近くの軍需(ぐんじゅ)工場に動員されていました。工場が休みだった1945年8月6日の朝は、爆心地から約1・5キロの舟入本町(現中区)の自宅玄関前を掃いていました。
原爆がさく裂した時の光や音の記憶はありません。気付くと10メートルほど飛ばされ、辺りは真っ暗でした。朝なのに「夢ではないか」と体をつねってみました。そのうち「夜明けのようにだんだん明るくなった」そうです。
体を見ると、飛んできた瓦(かわら)などで左半身が血だらけでした。自宅にいた祖母や母と一緒に江波(えば)(同)のイチジク畑まで逃げました。3歳上の姉とも「奇跡的」に再会を果たしました。
気がかりだったのが弟で広島県立広島第二中(現観音(かんおん)高)1年の井尻智夫(いじりのりお)さんでした。新大橋(現中区の西平和大橋)東詰めの建物疎開(そかい)作業に動員されていました。
姉と2人で現場付近へ向かうと、川に無数の遺体(いたい)が浮かんでいました。川へ下りる石段にも、ひどいやけどの人たちがぎっしり座り込んでいました。「動けんようになった人がどうしようもなくなり、石段を滑(すべ)り落ちていきました」
智夫さんを見つけたのは翌7日。路面電車の線路を枕に寝かされた負傷者(ふしょうしゃ)のそばの瓦(かわら)に「二中 井尻」とありました。「姉と2人で声を上げると、弟も『姉ちゃん』と答えました」。同じ場所を7回目に通り、ようやく気付けたのです。全身のやけどがひどく、垂れ下がった皮膚(ひふ)を「切って」と頼まれました。
智夫さんによると、被爆直後に木材の下敷(じ)きになったのを、知らないおじさんが「大きくなったらアメリカをやっつけて」と助けてくれたそうです。その後はうわごとが増え、「川に泳ぎに行こう」「風呂に入って泳ごう」と水のことばかり口にしました。
亡くなる少し前、智夫さんは家族一人ずつに語りかけ、9日朝に息を引き取りました。中川さんは「最期に話ができて良かった」と言いつつ、「同じ頭の形をした子を見ると思い出す」と弟の面影を今もたどります。
戦後に再開した市女では、元気だった同級生が次の登校日に姿を見せずに亡くなっていたこともありました。放射線の影響を疑い、中川さん自身も健康に不安を感じながら生きてきました。
これまで被爆体験を家族以外に話しませんでした。長男俊昭(としあき)さん(74)が3年前に別の被爆者の体験伝承者として活動を始めたのを機に、講話などで配る折り鶴を作るようになりました。「戦争だけはもう絶対にしてほしくない」。そんな強い思いも重ね、3千羽以上の鶴を折ってきました。
90歳を過ぎ、毎年のように出ていた8月6日の二中と市女の慰霊祭への参加が難しくなりました。それでも「後輩(こうはい)たちに頑張ってほしい」と、両校の惨禍(さんか)がずっと語り継がれるよう願っています。(藤村潤平)
私たち10代の感想
後輩として思いを継ぐ
「戦争や防空壕(ごう)での生活は二度と誰にもしてほしくない」という中川さんの言葉に、胸を強く打たれました。8月6日は動員先の工場が休みだったため爆心地付近に住む同級生を多く失うなど、そのつらさを身に染みて感じました。後輩の舟入高生として、また一人の若者として中川さんをはじめ被爆者の思いを受け継いでいきたいです。(高2新長志乃)
戦争 心も体も傷つける
中川さんが作った折り鶴を私も頂きました。そこに込められた平和への思いを想像すると、特別なものを感じます。中川さんは、二中や市女の慰霊碑を訪れると、碑に刻(きざ)まれた弟や友達の名前をなでているそうです。戦争は人々の心にも体にも大きな傷(きず)をつけるものです。二度と繰(く)り返してはいけないとの思いを新たにしています。(高1佐藤那帆)
命一瞬で奪われる怖さ
原爆によって人々にとっての死がとても身近なものになったのだと、中川さんの話から感じました。特に印象に残ったのは、原爆投下後に学校が再び始まって友達と再会したけれど2回目に登校した時には多くの人が亡くなっていたという話です。普通ならあり得ない早さで命が消えていく様子を想像して鳥肌が立ちました。原爆で亡くなった弟の話をする時、「一番いい子が一番最初に亡くなってしまった」と悔しそうに悲しそうに何度も言っていました。いつも当たり前に近くにあった命が一瞬で奪われてしまう怖さを感じました。(高3中野愛実)
思い出すつらさ伝わった
被爆後、中川さんが江波の方向に逃げていくときに子どもたちの助けを叫ぶ声を聞いたという話に胸をとても締め付けられました。思い出すと今でもつらい気持ちになるそうです。原爆は被爆者の方々の身体だけでなく心にまで傷を負わせていると実感しました。被爆者の方々のお話を直接聞くことのできる最後の世代として、1人でも多くの方々に8月6日のことを知ってほしいと思います。(中1河原理央菜)
◆孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。
(2025年6月16日朝刊掲載)