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連載・特集

戦後80年 芸南賀茂 賀茂高女 <下> 「生き地獄」で救護活動

 1945年8月6日の午前8時15分。東広島市西条西本町の旧賀茂高等女学校(賀茂高女、現賀茂高)の生徒たちは、軍服の縫製作業に取りかかろうとしていた。当時の3年生大林春美さん(94)=西条町郷曽=は、陸軍のマークの入ったはちまちをきりりと締め、ミシンの並ぶ教室に入った。

 その時、閃光(せんこう)とともに大きな音を感じた。しばらくして西の空に黒い雲の固まりが見えた。「地震じゃろうか」。同級生たちと不安そうに窓の外を見つめた。その日も、夕方までミシン作業は続いた。

 大林さんは帰宅の途中に西条駅に出て驚いた。体中にやけどを負い、男女の区別もつかない人たちが、列車で運ばれてきていた。赤ん坊を抱いた母親もいた。「恐ろしうて、よう見られんかった」と声を詰まらせる。

交代で広島へ

 8月15日に終戦を迎え「学校工場」は閉鎖となった。自宅にいたところ、広島市内に救援に行くよう連絡があった。「お国のために尽くす時代。親も反対なんてしなかった」

 賀茂高の同窓会によると、8月17日以降、当時の3、4年生が県の要請で代わる代わる救護隊として派遣された。広島逓信病院(現広島はくしま病院)第一国民学校(現段原中)本川国民学校(現本川小)大河国民学校(現大河小)の4カ所の救護所に分かれたという。

 大林さんは、爆心地から約350メートルの本川国民学校に同級生と向かった。川べりに立つ鉄筋の校舎には窓ガラスは一枚もなく、吹きさらしの鉄骨と崩れた壁が残っていた。引き取り手のいない多くの被爆者が横たわっていた。

 教室で雑魚寝をしながら、校庭で米を炊き、おにぎりを作った。被爆者の口に持っていっても、食べる気力もないようだった。「水をくれ」とせがまれ、生ぬるい水を与えると息絶えた人もいた。連日のように収容患者は亡くなり、遺体は校庭で焼かれた。「この世の生き地獄。助けるいうことはできんかったね」

証言を映像に

 大林さんは戦後、14歳の夏の凄絶(せいぜつ)な記憶を賀茂高女の元生徒たちの手記集「姫さゆり」に寄稿した。それを読んだ郷田小(西条町)の保護者たちが20年ほど前、平和劇「郷田の8月6日」として子どもたちに上演してくれた。大林さんも語り役として出演した。

 被爆80年の今夏、東広島市教委が取り組む平和学習の一環で、ビデオカメラの前で証言した。大林さんは「世界を見ると今も戦争が続いている。つらい思いをしている人もたくさんいる。平和がいかに尊いか、あらためて知ってほしい」と願う。(石井雄一)

(2025年6月16日朝刊掲載)

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