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被爆直後に安否情報を発信 真宗光明団の学生ら

■記者 串信考

 広島師範学校(現広島大教育学部)の学生たちが、被爆後、負傷者から名前や住所を聞き取り、はがきで家族に居場所を知らせる活動をしていた。広島市西区にある浄土真宗の聞法(もんぽう)団体「真宗光明団」で、戦時中、合宿していた17、18歳の18人。広島師範の教員の故細川巌さん(福岡教育大名誉教授)の指示で、約2週間、はがきによる通知のほか、案内所の設置、被災者の介護などに力を尽くした。当時の関係者を訪ねた。

 真宗光明団は、親鸞の教えを学ぶ在家念仏者の団体で、1918(大正7)年に設立。教職を目指す若者の教化に力を入れ、その講演会などには広島文理科大や広島高等師範学校、広島師範の学生たちがよく集まった。

 細川さんは文理大の学生当時から光明団に参加。1944年、広島師範の教員になり、教えを聞いていた学生18人と同団に合宿し、寮長としての役割を担った。学徒動員された学生たちを宇品にあった旧陸軍船舶司令部(暁部隊)に送り出していた。

 「そのとき付けていた腕章です」。安芸高田市高宮町、高橋昭文さん(81)が白い布製の腕章を見せてくれた。「暁六一四〇部隊、學徒隊 廣島師範」。1945年8月6日、高橋さんは広島湾沖合の金輪島に着いた後、閃光(せんこう)とごう音でとっさに伏せた。兵隊の動きがあわただしくなった。

 動員先から光明団に戻った学生たちは、細川さんの指示で2、3人ずつに分かれ、聞き取りのために街を歩いた。東広島市黒瀬町、重光清三さん(81)は「学徒動員でも戦闘帽をかぶり、襟章がないだけで軍隊と同じ服装。軍隊の靴を履いていたので地面が熱くても歩けた」と話す。

 道路に倒れた負傷者に声をかけ、名前や住所を聞いた。ほとんどはものが言えない。胸に縫いつけてあった名札をノートに書き取った。光明団に帰ってはがきに転記。倒れていた場所など、家族が捜す際の手掛かりを書き添えたという。

 被爆時に市助役だった柴田重暉さん(故人)は1955年に著した「原爆の実相」で、学生たちの行動に感激し、近郊町村に職員を派遣してはがきを集め、光明団に届けた―と書いている。

 学生たちは市内に案内所を設置して、家族を尋ねる人にできるだけの情報を伝えた。小学校で負傷者を介護した広島県熊野町、工田孝了さん(81)は「人を抱えたら、ふくれあがった太ももに指が食い込んだ」と振り返る。

 学生たちは体験を基に手記集「光明団と広島師範と軍港宇品と原爆といま」を1993年に発行。書いたはがきは「周辺の郵便局」から発送したという。しかし、学生の中から髪の毛が抜けたり、血便が出たりする者が現れ、8月22日ごろ活動を中止した。

 「廣島郵政原爆誌」によると、爆心直下の細工町(現中区大手町)にあった広島郵便局は在局員が全員死亡。爆心地から2キロ以内の郵便局は局舎が焼失し、2キロ以上離れた局も建物が著しく破壊されるなど、郵便業務の遂行はかなり困難な状態だったようだ。

 高橋さんは「はがきが届いたのかどうかは分からない。返事が来たことはない」と言った。同級生たちの記憶は薄れ、食い違う部分もあるが、「安否を気遣う家族のために必死だった」との思いはよく覚えている。

真宗光明団
 広島県北広島町出身で、在家の念仏者の住岡夜晃氏(1895~1949年)が、親鸞の教えを聞く「聞法」のための団体として設立。住岡氏は広島師範を卒業後、小学校教師を務めていたため、その法話には学生たちがよく集まっていた。現在、本部は広島市西区庚午北3丁目。東西両本願寺などから講師を招き、会員は約800人いる。

(2009年8月3日朝刊掲載)

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