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連載・特集

戦後80年 芸南賀茂 賀茂高女 <上> 学びを奪われ勤労動員

 東広島市西条西本町の賀茂高の前身、賀茂高等女学校(賀茂高女)の生徒は戦時中、戦闘機の部品や軍服作りなどの勤労を余儀なくされた。原爆投下後は広島市内で救援活動に当たった。当時を知る元女学生たちの証言や手記から、戦争の愚かさや平和の尊さを考える。(石井雄一)

 「当時の私たち子どもにとっては、夢のようなできごとであった」。江戸芳江さん(95)=東広島市志和町=は、1942年に賀茂高女に入学したことを、賀茂高創立80周年記念誌にそう記した。

 今の小学校に当たる国民学校を卒業した人の多くが、農業などに従事していた時代。希望を胸に憧れの女学校に進んだ江戸さんだったが、次第に悪くなる戦況に翻弄(ほんろう)されていく。

責任と恐怖と

 賀茂高女は44年11月、広島市の陸軍被服支廠(ししょう)の工場となった。陸軍の星のマークが入った白鉢巻きを締めた江戸さんたち3年生は、教室に並んだミシンで、軍人の夏用シャツやズボンなどの縫製の作業をした。江戸さんは、学校を代表して被服支廠にミシン修理の技術を習いに行った。

 翌45年1月、縫製作業は2年生に引き継ぐ。江戸さんは同級生と呉市広地区の海軍工廠に向かった。前の年から広地区で働く1学年上の先輩たちと宿舎に泊まり込み、機械の部品を旋盤で加工する作業に当たった。

 度重なる空襲警報。45年3月には米軍機の機銃掃射が広地区を襲う。「責任と恐怖の入り交じった複雑な気持ちの毎日」「気力だけの生活でした」と江戸さんは手記に残している。

 ところが、江戸さんは4年生になる頃、学校に呼び戻された。ミシンの修理や下級生の指導を担うためだった。「故障があったときに、ドライバーを持って駆け付けるのが仕事よ」と回想する。

疲労にあえぐ

 広地区の同級生たちの疲労はひどかった。空襲警報が出ても起きない生徒や避難を拒む生徒もいたという。5月には広海軍工廠や第11海軍航空廠への集中攻撃があった。動員されていた生徒が亡くなる学校もあった。

 憧れた女学校の生活はもうどこにもなかった。江戸さんがミシンを教えた後輩の中に後の芥川賞作家、大庭みな子(1930~2007年)がいた。大庭が同校に寄せた「西条の二年」という寄稿に、勤労作業の様子がつづられている。

 午前七時から午後六時まで十一時間、ミシン作業をしなければならなかったのだ。現代なら、労働基準法違反の罪に問われるところであろうが、児童と呼ぶのがふさわしい年齢の少女たちに、そういう苛酷な労働を強いたのも国家だった
(2025年6月15日朝刊掲載)

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