[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2025年6月 原爆死没者名簿の記帳
25年6月17日
引き継がれる「使命感」
2025年6月。広島市役所での原爆死没者名簿の記帳会場に、30年以上担当していた池亀和子さんの姿はなかった。1年前、胃がんを押して夏の務めを果たし、8月16日に亡くなった。
「命懸けていた」
「母は、記帳に命を懸けていた」。会社員の長男和俊さん(59)=南区=は近くの実家に残る母の毛筆やすずりを見ると、こみ上げる。「健康には自信があり、よく100歳まで生きると宣言していました。死没者の名を書き続けて『母が最後の一人になればいいね』と話したこともあったんですが」
池亀さんは3歳の時、爆心地から1・7キロの観音本町(現西区)の自宅近くで被爆。顔にガラス片が刺さり、火の手が上がる中を母と畑に逃げ込んだ。母は倒れた木で頭をけがしていたが、池亀さんを手当てし、被害者たちの救護や遺体の火葬も手伝った。
高校を卒業した池亀さんは市職員となり、子ども2人を育てながら市民課などで勤務。幼少期から祖母に書道を習い、市が贈る賞状を書いていた。上司の推薦で、40代の時に初めて原爆死没者名簿の記帳を担当。92年からは毎年続けた。
初日は市役所で報道公開されるが、大半は名簿を持ち帰って自宅で書いた。仕事や家事の後、時には日付が変わるまで机に向かった。多い夏は3千人以上に。やはり被爆して体中にガラス片が刺さり92年に亡くなった父、16年死去の母のほか、友人も自ら記した。
一家全滅などを背景に、その死を確認すらできない犠牲者を刻む「氏名不詳者多数」の7文字を書いたのは06年。「計り知れない重み」を感じて筆先が震えた。
19年に市内の小学校での講演のため用意したメモに、記帳への思いをつづる。「当時3才という年令ですべての恐ろしさを記憶していません。原爆の伝承はすることが出来ません。こうして死没者名簿を書かせていただくことが唯一私の出来ることだと思っています」
その役割をまだまだ担えると思っていたが、24年1月、不調を感じて胃を検査すると末期の胃がんと診断された。すぐに胃の一部を切除するも、医師から「余命1年」と宣告された。「『今年の記帳は駄目じゃね』と話していたんですが、病状が良い方向に向かって5月ごろには『やるよ』と」(和俊さん)
病室で筆握る
初日の6月3日は市役所で中本信子さん(82)=南区=と記帳。翌日、肝機能の悪化も見られ入院した。病室の小さな机で、点滴を打ちながら筆を握った。有効な治療法がないといわれ、7月中旬に退院した後も、自宅の机に向かった。
1日に100人以上を書く日もあったが、やがてペースが落ち、8月になると難しくなった。5日に広島国際会議場(中区)を訪れ、その日死亡が確認された死没者を記したのが最後になった。
6日は自宅のベッドで平和記念式典のテレビ中継を見て名簿の奉納を見届けた。10日後、家族に見守られ息を引き取った。自ら記帳した人数を書き留めたメモが残り、約9万人に上った。
「使命感を持って1文字ずつ丁寧に書く姿が印象に残っています」。中本さんは生前をしのび、この夏の記帳を続ける。今月12日時点で市が新たに確認している死没者は2928人。池亀さんの名も載る名簿は、8月6日に原爆慰霊碑に納められる。(山下美波)
(2025年6月17日朝刊掲載)