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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2025年6月 広島県被団協の追悼

受賞見届け逝った「先人」

 2025年6月13日。広島県被団協(箕牧(みまき)智之理事長)は広島市中区で本年度の総会を開いた。冒頭でこれまでに亡くなった被害者に黙とうをささげ、池田精子さんが新たな一人に挙げられた。草創期から活動を続けて副理事長を務め、昨年12月20日に92歳で死去した。

 近年は脳出血で体調を崩し、市内の高齢者施設で過ごしていた。日本被団協へのノーベル平和賞授賞式の7日後の12月17日、意識を失って病院に救急搬送。長女真智子さん(73)=安芸区=は付き添った職員から、施設では受賞を誇らしそうにしていたと聞いた。「私はこういう活動をしてたのよ、とほかの利用者や看護師に話していたそうです」

 池田さんは広島女子商業学校1年だった12歳の時、爆心地から約1・5キロの動員先で建物疎開作業中に熱線に焼かれた。大やけどを負った顔を鏡で見ると、「唯泣きくずれるばかりでした」(1953年の手記)。痕はケロイドとなって盛り上がり、左の唇はめくれ、茶を飲むとこぼれ落ちた。

 「私はもう生きる勇気を失ってしまいました」(以下、広島平和文化センターの88年収録の証言映像)。それでも両親の愛情を胸に前を向き、洋裁を学び教室を開いた。元の姿に近づけばと傷痕の手術を何度も受けた。

運動が励みに

 55年には初の原水爆禁止世界大会が市内で開かれ、原水爆禁止と被害者の援護との両輪の運動に励まされる。「『生きていて良かったなあ。私たちを理解してくださる方があったんだ』と思ったんです」

 50年に結婚した夫も原爆で弟を亡くしていた。池田さんは56年3月に、援護を求める国会請願に参加。8月には長崎市での第2回世界大会の会場で、日本被団協の結成を見届けた。

 51年生まれの真智子さんは「傷痕は、小学校の参観日に『お前の母さんどしたんや』と男子に聞かれるほどでした」と話す。池田さんは被爆後、列車通学が耐えられないほど人目に苦しんだが、運動に加わるにつれ「原爆の恐ろしい、むごたらしい生き証人として世界中に訴えていく義務」を感じていた。

 修学旅行生たちが訪れる原爆資料館のほか、米国やイタリアでも身をもって証言。16年には、先進7カ国(G7)外相会合で市を訪れた外相の配偶者に体験を話した。

 しかし翌17年と19年に脳出血を発症し、証言も被団協の活動も一線から退いた。21年に亡くなった前理事長の坪井直(すなお)さんのお別れ会には、孫の佳世さん(49)=安芸区=が付き添って車椅子で出席した。

うれしい半面

 佳世さんは昨年のノーベル平和賞の受賞者発表後、感染症対策で面会が制限される中、お祝いのポストカードを池田さんに届けた。「うれしい半面、もっと早く、祖母や坪井さんが元気な時期だったならばと悔しさも感じます」

 市の被爆体験伝承者を務めており、「今後の活動で祖母から聞いたことを伝えたい」と話す。受け継いだ遺品の一つ、95年の米アメリカン大での証言原稿には次世代への期待が書かれている。

 「広島、長崎に生き残った人びとは、自己の利害や苦楽を超越して、戦争反対、核兵器廃絶を叫び続け、訴え続けています。私はこの人たちを信じます。そして、この被爆者の叫びを受け入れてくださるみなさんの力を信じます」(編集委員・水川恭輔)

(2025年6月18日朝刊掲載)

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