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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2025年6月 手記と「原爆の絵」

記憶を残す営み 脈々と

 2025年6月。開館24年目に入った国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)が、被爆体験記の収集を続けている。灰色のファイルにまとめ、地下1階の閲覧室で公開。埼玉県ふじみ野市の高橋桂子さん(83)が4月に書いた手記も真新しい「124巻」にとじられている。

 幼かった被爆時の記憶はないが、今も体には惨禍の傷痕が刻まれている。「きれいな体になって生まれ変わりたい」。消えない思いを抱き、母から聞いた被爆時や戦後の苦悩を書いた。

ケロイド隠し

 80年前の8月6日は4歳だった。爆心地から2キロの南観音町(現西区)で倒壊した自宅の下敷きになり、体中にやけどを負った。母や妹もけがを負い、親類のいる京都市に移った。

 膝の裏や左腕にケロイドが残り、小学校では傷を覆う包帯姿をやゆされた。短いズボンをはく体育の授業は休みがちになり、運動会はほぼ参加しなかった。

 「ケロイドはどんどんひどくなり、(中略)毎日朝夜包帯を変えるのも気持が悪かった」「夜は眠ると、途中ぱっと起きて“怖い・怖い”と泣き(家族は)精神の病だと思ったそうです。今ではPTSDなのでしょう」(手記)

 高校時代はスクールバッグを体の後ろに回し、制服のスカートからのぞく膝の裏を隠して歩いた。おしゃれ好きだった幼少期に夢見た服飾デザイナーの道は諦めた。

 結婚、出産後の39歳の時に都内の病院で皮膚の移植手術をし、傷痕は幼少時よりは目立たなくなった。今はヨガを日課に時々旅行を楽しむ。しかしヨガ教室で列に並ぶ時は左腕が隠れるよう左端を選びがち。家族や友人と温泉旅館に泊まっても、部屋にある風呂を使う。

 これまで被爆体験は口外せず、30年余り前に訪れた広島市で原爆資料館に入った際は胸が苦しくなり、すぐに外に出た。だが今年4月、厚生労働省が自治体を通じて配った手記募集のチラシが自宅に届き「80歳を過ぎ、今なら書けるかもしれない」と思った。頭を悩ませつづった手記は「私達のような経験は、世界の人々にしてほしくないです」と結んだ。

証言基に207点

 被爆者の言い尽くせぬ記憶を残す営みは高校生の絵筆によっても続く。基町高(中区)の歴代の生徒たちは07年から、証言を基に「原爆の絵」を制作し、これまで207点を描いた。

 今月6日、内藤慎吾さん(86)=南区=が3年の中原雅さん(17)と橋本一檎(いちご)さん(17)に向き合った。6歳の時に爆心地から1・7キロの自宅で被爆。自宅は崩れ落ち、母が必死に瓦を剝がして幼い弟と妹を助け出し、抱きかかえて救護所へ向かったが、2人とも息絶えた。

 絵にするのは、2人を助け出す母と、大やけどを負いながら一家を救護所まで導く父。対面は昨年10月から10回ほど重ね、この日も内藤さんが細部にわたって証言した。「シャツはこんなにきれいじゃなかった」「妹はもう少し小さかった。わしにちょこちょこ付いて走り回って」

 80歳を超えて証言を始め、「言葉にするとさらっと流れていく」気がして、絵に残したいと望んだ。託された中原さんは「実際に見たわけではない私が描く以上、100%リアルではない。ただ、絵だからこそ被爆者が一番伝えたい思いを乗せた表現ができる」。2人を含む生徒15人が被爆者6人の体験を描いた絵は近く披露される。(下高充生)

(2025年6月19日朝刊掲載)

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