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[戦後80年 芸南賀茂] 大和に乗務 100歳の教訓 旧呉海軍工廠少年工 広島の中倉さん

「考えること放棄しないで」

 旧呉海軍工廠(こうしょう)の少年工として戦艦大和に乗った男性がいる。広島市佐伯区の中倉勇さん(100)。真珠湾攻撃に加わった「特殊潜航艇」の航行試験にも参加した。時代の空気にのまれ、関わってしまっていた戦争。「慣れほど恐ろしいものはない。考えることを放棄してはいけない」との思いを強くする。(栾暁雨)

 呉市生まれの中倉さんは1938年、13歳で呉工廠の工員養成所に入った。母子4人世帯の家計を助けるためだった。造船設計の見習工として午前は製図などを学び、午後の勤務では図面を複写する。「全国から受験者が集い、合格率は3割。制服を着て呉の街を歩くのが誇らしくてね」。宮島に遠足した時の写真を大切に保管している。

 41年秋、大和の性能を試す高知沖での試運転に2泊3日で参加した。速度や操舵(そうだ)性能の確認に大勢が駆り出された。全長263メートルの艦内は迷路のよう。最初の注意は「迷子になるな」だった。全速力で進む巨艦の船底で、ギリギリという激しい音が聞こえるたび、息が詰まるような緊張感があった。

 真珠湾攻撃に使われた小型の潜水艇「甲標的(特殊潜航艇)」にも関わった。真珠湾の地形に似た愛媛県三机湾での訓練に速度の計測や操縦機能の記録係として同行した。奇襲攻撃については知るよしもなかった。

 44年に19歳で新兵教育を担う呉海兵団に入る。「気合を入れろと、棒で尻をたたかれてね。脱走者もいてつらい思い出」と振り返る。45年春に、今の呉市安浦町にあった安浦海兵団に事務職で配属され、そこで終戦を迎えた。

 戦後は米国が設置した原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)に勤め、後遺症に苦しむ被爆者を目の当たりにした。100歳を迎えた今、足腰は弱ったものの言葉は力強い。「あの頃は国中がいけいけ、どんどんで、考えることを放棄していた。今の平和は当たり前じゃない」。戦争の悲劇を知る人間が減っていく中、胸に刻んだ教訓を後世に伝える。

(2025年6月19日朝刊掲載)

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