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[被爆80年] 陸奥の崩壊 急速に進む 岩国市沖

 岩国市沖の柱島と山口県周防大島町の間の瀬戸内海。多島美が広がるこの海底に戦艦陸奥は眠っている。太平洋戦争中の1943年6月8日、停泊中に謎の爆発を起こして沈んだ。艦体の約7割は戦後に引き揚げられたが、主砲や艦橋の一部が今なお海底に横たわる。年月を重ね、急速に崩壊が進んでいる。

 現場へ潜ると、水深14メートルで艦体にたどり着く。当時の爆発の激しさを物語るように艦体はひっくり返り、船底を上にして沈んでいる。胴体を伝っていくと、艦の仕切りとなっていた隔壁が崩れた箇所も見える。

 艦首側へ進むと、水深は40メートルに。海底の泥に埋もれた主砲が現れる。大正後期の完成時には世界最大の16インチ(40・6センチ)砲だった。透明度は低く、視界は3~5メートルほど。艦体には乗組員の遺品も残っているとみられる。犠牲者は1121人に上る。(写真・高橋洋史、文・山本祐司)

「平和の大切さ伝わる」

広島の梶川さん 艦影追って35年

 広島市西区の理容師梶川昭夫さん(61)は35年間、海中の戦艦陸奥を見守り続けている。残骸が急速に崩れていく様子を目の当たりにし「このままでは忘れ去られる」と写真に収める。

 出合いは26歳だった。参加したダイビングツアーで見た陸奥の印象を「暗くておどろおどろしかった」と振り返る。やがてガイドを務め現地での潜水が100回を超えた頃から、全体像をつかもうと踏み込んで観察するようになった。

 2012年、船室の天井の甲板が剝がれ始めた。隙間は次第に広がり、8年後の20年には甲板が崩落して船室がむき出しになったと気付いた。「いつもあったものがなくなっていた。今ある姿を撮っておかなければ」とカメラを向け、潜るごとに日誌にイラストと気付きを記す。

 被爆者だった亡き父の証言を聞けなかった心残りも原動力になった。「写真を見てもらえれば平和の大切さが伝わるはず」と、ツアー客にも写真や記録を見せている。現場への潜水は240回に達した。「艦体の保存は無理でも写真なら残せる。自分にできることを続ける」(山本祐司)

(2025年6月23日朝刊掲載)

オリジナル動画「戦後80年 瀬戸内海に眠る戦艦陸奥」はこちら

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