『潮流』 ピカ○
25年6月21日
■論説委員 田原直樹
被爆者が10万人を割った。いなくなる日もいずれ訪れる。焦燥が募る。考えるうち原爆に関する数について、ある光景を思い出した。
広島市中心部八丁堀で看板を前に、大人たちがチラシを配っている―。60年近く前、幼い頃の記憶の断片だ。
8年前に亡くなった父の倉庫を整理して、あの看板を見つけた。手製の木製パネルだった。
「ピカより今日は○○日」とある。0~9の数を記した板も。枠に入れ日数を示した。
「ピカ○(まる)」。活動を名付け一時期、毎月6日に仲間と街頭に立った。訴えたのは、あの日を忘れずに語り継ぐ重要性。
今では誰もが意識し、行政も取り組んでいるがかつては違った。
被爆者ではないのに、なぜ…。朝鮮半島から引き揚げる途中、被爆した人の姿や広島の街を見て衝撃を受けたらしい。
原爆被害の実態を知ろうにも文献や資料は顧みられず、散逸していた。驚き、危惧して約70年前から収集・研究へ。幻吉と称して生涯続けた。
「ピカ○」も、その一環。「1万日」に当たる日などは、新聞各紙に広告を出した。私設の原爆図書館を目指すものの、かなわなかった。
今日では、被爆体験の風化に危機が叫ばれる。資料保全も取り組まれている。父にすれば、今昔の感があるだろう。
表に出たがらなかった男が始めた「ピカ○」は実は今も続く。活動を支えてくれた仲間の一人、中川幹朗さんによって。ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会代表の傍ら、交流サイト(SNS)で毎日発信されている。
ピカから3万日を再来年9月25日に迎えるという。広島・長崎はどのように記憶されているか。
(2025年6月21日朝刊掲載)
被爆者が10万人を割った。いなくなる日もいずれ訪れる。焦燥が募る。考えるうち原爆に関する数について、ある光景を思い出した。
広島市中心部八丁堀で看板を前に、大人たちがチラシを配っている―。60年近く前、幼い頃の記憶の断片だ。
8年前に亡くなった父の倉庫を整理して、あの看板を見つけた。手製の木製パネルだった。
「ピカより今日は○○日」とある。0~9の数を記した板も。枠に入れ日数を示した。
「ピカ○(まる)」。活動を名付け一時期、毎月6日に仲間と街頭に立った。訴えたのは、あの日を忘れずに語り継ぐ重要性。
今では誰もが意識し、行政も取り組んでいるがかつては違った。
被爆者ではないのに、なぜ…。朝鮮半島から引き揚げる途中、被爆した人の姿や広島の街を見て衝撃を受けたらしい。
原爆被害の実態を知ろうにも文献や資料は顧みられず、散逸していた。驚き、危惧して約70年前から収集・研究へ。幻吉と称して生涯続けた。
「ピカ○」も、その一環。「1万日」に当たる日などは、新聞各紙に広告を出した。私設の原爆図書館を目指すものの、かなわなかった。
今日では、被爆体験の風化に危機が叫ばれる。資料保全も取り組まれている。父にすれば、今昔の感があるだろう。
表に出たがらなかった男が始めた「ピカ○」は実は今も続く。活動を支えてくれた仲間の一人、中川幹朗さんによって。ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会代表の傍ら、交流サイト(SNS)で毎日発信されている。
ピカから3万日を再来年9月25日に迎えるという。広島・長崎はどのように記憶されているか。
(2025年6月21日朝刊掲載)