[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2025年6月 核被害者フォーラム
25年6月21日
原点を胸に 連帯へ準備
2025年6月。森滝春子さん(86)=広島市佐伯区=は、10月に市内である「世界核被害者フォーラム」の準備に追われている。自宅でパソコンを開く作業場は、日本被団協の結成に参画した父市郎さん(1994年死去)が使っていた書斎。海外からの参加者とメールで打ち合わせを続ける。
フォーラムは共同代表を務める市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」(HANWA)などが「核被害の根絶」を掲げて10年ぶりに開催。米国やその信託統治下で水爆実験が繰り返されたマーシャル諸島、英国の核実験場があったオーストラリアなどから核被害者たちを招く。父の活動を胸に「あらゆる核被害を原点に置くのが広島の立場」と連帯を深める。
広島、長崎への原爆投下後、米国は早くも翌46年7月にマーシャル諸島のビキニ環礁で核実験をした。旧ソ連、英国、フランス、中国なども核開発を進め、これまでに世界で2千回以上の核実験が繰り返された。そのニュースが伝わるたび、市郎さんは原爆慰霊碑前で抗議の座り込みをした。
やがて核への問題意識の幅は一層広がった。自著によれば、大きなきっかけは75年にフィジーであった「非核太平洋会議」。オーストラリアの先住民アボリジニの女性から「私たちの同胞の無知をよいことにしてウラン採掘の最も危険な所で低賃金で働かされている」との訴えを聞いた。
30ヵ国の300人
86年4月に、旧ソ連のチョルノービリ(チェルノブイリ)で原発事故が発生。翌年秋、市郎さんが代表委員を務める原水禁国民会議が主導し、米ニューヨークで「核被害者世界大会」が初めて開かれた。米国の核実験場周辺の住民やチョルノービリ原発事故の被害者ら約30カ国の約300人が被害や救済を討議した。
広島県原水禁の事務局員だった金子哲夫さん(76)=中区=は、被爆者たち約50人の日本代表団の一員として渡米。団長の市郎さんが、米国のウラン採掘場の先住民に教会で郷土料理を振る舞われたのが印象に残る。「弱い立場の人に寄り添う森滝先生の姿勢が伝わっていました」
市郎さんは8日間の大会で「愛の文明―ヒロシマからの提言」を発表した。「軍事利用でも平和利用でも核の開発利用には常に放射線被害の可能性がからんでいる」「被害者は多くの場合、弱いものの側、差別され抑圧されているものの側に生じる」…。当時の直筆原稿を受け継ぐ春子さんは、「核の問題の本質を感じる」とみる。
自身は県内の公立中職員を96年まで務めた後、核を持って対立するインドとパキスタンから青少年を招く平和交流事業などの市民活動を本格化した。10月のフォーラムは、インドのウラン鉱山がある地域から少年時代に交流に参加したジャーナリストたちも招く。
広島の若者も
元市長で旧ソ連のセミパラチンスク核実験場周辺の被害者支援などに携わった平岡敬さん(97)=西区、在外被爆者の援護などの問題に取り組んできた金子さんも登壇する。今月29日の事前イベントでは、昨年マーシャル諸島を訪れた広島の若者が現地の状況を発表する。
フォーラムの源流となった87年の大会で、市郎さんは「愛の文明は地球上の人間の平等共生の上に築かれる。殺し合うのでなくて生かし合い、奪い合うのでなくて譲り合う」とも訴えた。世界各地の「ヒバクシャ」に寄り添い、連帯や支援とともに「核時代」を問い直す市民の営みは重みを増す。(下高充生)
(2025年6月21日朝刊掲載)