形見の2通 遺族にぜひ 広島市女の元生徒 手紙の友は被爆死していた 悲しい消息、本紙で知る
99年3月10日
被爆死した広島市立第一高等女学校(市女、現市立舟入高)の生徒が、原爆投下の四カ月前に出していた手紙が九日、広島市西区高須二丁目の麻生(旧姓三上)泰子さん(67)から中国新聞社に寄せられた。特集紙面「遺影は語る 広島市女2年」(二月二十八日付)で、送り主の級友の死を知った麻生さんは「ご遺族に形見としてお返ししたい」と、半世紀を超えて持ち続ける手紙の返還を願っている。
手紙は被爆当時、市女二年だった「古川妙子」さんがしたため、一九四五(昭和二十)年三月三十一日付と四月六日付の二通が残る。
「四月五日に小さい一年生が入ってきました。(略)九日からはうわばきははかれませんよ。それから朝礼ははだしで出るのよ。『冷たい冷たい』と皆言っていますよ」。市女で同じ四組に在籍し、父親の転勤で一年の夏に山口市の山口県女へ転校した麻生さんに、学校行事やクラスメートの様子を事細かにつづる。
古川さんたち二年生と一年生の計五百四十一人は八月六日、現在の中区の平和記念公園南側一帯の建物疎開作業に動員されて被爆し、全滅した。麻生さんは、その五年後広島に戻った。「転校しなければ私も同じようになっていたはず…」。短い交際に終わった級友たちの生死を尋ねるのはためらいを覚えた。追悼を込めて、手紙は大切にしまいこんだ。
麻生さんは、「遺影は語る」で古川さんや級友一人ひとりの死去に初めて接したという。入学写真が残っていた二年生六クラス二百二十六人の遺影を確認した紙面には自身も写る。
「健在の方たちが力を合わせて、亡き級友の記録に努めておられる。少しでも協力できれば」と、保管する手紙の返還を思い立った。封書の裏に記された古川さんの当時の住所は「広島市榎町一ノ一」。市女原爆遺族会の記録によると、遺族の名前は「姉恵美子」さんとある。
このほか二月二十八日付特集紙面を見た遺族や知人を通じて、「広島市女2年」は、新たに五人の遺影が判明し、消息が分からなかった十一人のうち本人四人から連絡が寄せられている。
(1999年3月10日朝刊掲載)
手紙は被爆当時、市女二年だった「古川妙子」さんがしたため、一九四五(昭和二十)年三月三十一日付と四月六日付の二通が残る。
「四月五日に小さい一年生が入ってきました。(略)九日からはうわばきははかれませんよ。それから朝礼ははだしで出るのよ。『冷たい冷たい』と皆言っていますよ」。市女で同じ四組に在籍し、父親の転勤で一年の夏に山口市の山口県女へ転校した麻生さんに、学校行事やクラスメートの様子を事細かにつづる。
古川さんたち二年生と一年生の計五百四十一人は八月六日、現在の中区の平和記念公園南側一帯の建物疎開作業に動員されて被爆し、全滅した。麻生さんは、その五年後広島に戻った。「転校しなければ私も同じようになっていたはず…」。短い交際に終わった級友たちの生死を尋ねるのはためらいを覚えた。追悼を込めて、手紙は大切にしまいこんだ。
麻生さんは、「遺影は語る」で古川さんや級友一人ひとりの死去に初めて接したという。入学写真が残っていた二年生六クラス二百二十六人の遺影を確認した紙面には自身も写る。
「健在の方たちが力を合わせて、亡き級友の記録に努めておられる。少しでも協力できれば」と、保管する手紙の返還を思い立った。封書の裏に記された古川さんの当時の住所は「広島市榎町一ノ一」。市女原爆遺族会の記録によると、遺族の名前は「姉恵美子」さんとある。
このほか二月二十八日付特集紙面を見た遺族や知人を通じて、「広島市女2年」は、新たに五人の遺影が判明し、消息が分からなかった十一人のうち本人四人から連絡が寄せられている。
(1999年3月10日朝刊掲載)