[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2025年6月 外国人訪問者
25年6月24日
世界緊迫 原爆被害学ぶ
2025年6月。広島市中区の原爆ドーム前で、三登浩成さん(79)=広島県府中町=が連日、ボランティアガイドに立つ。米軍の原爆投下3日後に市中心部に入った母のおなかにいて胎内被爆。元高校の英語教員で、活動開始から19年間で案内した外国人の数は185カ国・地域の約10万6千人に上る。
「友人から評判を聞いてね」。インド出身で立命館大に留学中のフェミン・ジョシーさん(23)は来日した家族や親類を伴い今月、三登さんの元を訪れた。原爆資料館での学びの補完にと、放射線の人体への影響などを示すさまざまな資料と、家族の被爆体験を交えて、被害の実態を聞いた。
印パ衝突憂う
ひとしきり説明を受けると、ジョシーさんは核兵器保有国同士のインドとパキスタンの武力衝突に不安を吐露し、ドームを見やった。「今のインドの若者は戦いに勝ちたいと思う人も多いが、その道を歩いたら最後はこうなる。何の意味もない」
三登さんの母登美枝さんは妊娠4カ月だった1945年8月9日、疎開先から小町(現中区)にあった自宅の焼け跡に行き、入市被爆。祖父穴田宝一さん=当時(52)=は勤務中に爆心地から約700メートルで土蔵の下敷きになり、9月に亡くなった。翌年1月に生まれた三登さんは幼少期、病弱だった。
還暦の頃にガイドを志したのは、原爆で左足を失い体験証言を続けた沼田鈴子さん(11年に87歳で死去)との出会いがきっかけ。長年体験を話さなかった母に手記を書いてもらい、参考にしながら活動を始めた。「母は息子が目立つのが嫌で最初は乗り気じゃなかったが、徐々に応援団になってくれた」
その母も今年2月に106歳で逝った。被爆者が日々いなくなっていく中で、世界の緊張が高まるからこそ広島で核兵器の被害を学ぼうとする外国人の増加を実感する。ジョシーさんと同じ日、ドイツから家族4人で来たマヤ・ファビアンさん(25)は「ここで何があったのかを見ることが未来をより良くすることにつながる」と話した。
一方で、三登さんは最近案内したウクライナ人から「核兵器を持っていなかったからロシアに攻められた。核兵器保有は必要」という声を聞いた。さまざまな訪問者との対話を通じ冷戦期のような緊迫感や核抑止力肯定の空気も感じながら、81年に広島を訪れたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉を必ず紹介する。「過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことです」―。
ノートに思い
海外からの強い関心は原爆資料館の「対話ノート」からも見て取れる。入館者同士や資料館職員との対話を目的に70年10月から館内に置かれ、現在は2カ所にB5判の計4冊がある。中をめくると、その多くが英語やスペイン語など外国語。被爆10年後に白血病のため12歳で亡くなった佐々木禎子さんの資料などを見て感じた気持ちを記す。
「私は言葉を失い、重い気持ちと涙でこの場を後にした」「昨日、宮島の鳥居そばで夕日を見て泣いた。原爆資料館を歩いてまた泣いた」…。
イスラエル軍の攻撃が続くパレスチナ自治区ガザに思いを寄せる声など、国際情勢を巡る記述も少なくない。「平和な未来への希望をいつまでも見習いたい」。160ページのノート1冊は現在おおむね1週間足らずで埋まり、累計1800冊を超えた。(山下美波)
(2025年6月24日朝刊掲載)