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連載・特集

戦後80年 芸南賀茂 工廠の学徒たち <上> 兵器生産 青春犠牲に

 戦時中、呉市には、戦艦や戦闘機などを造る工場が集まっていた。男性たちが戦地に赴き、労働力不足を補うために1944年から、10代の子どもが呉や広の海軍工廠(こうしょう)に多く動員される。戦争遂行の一翼を担わされ、兵器生産などに身を粉にした記憶をたどる。(栾暁雨)

 「『(兵器を)一つ造れば、一人死ぬ。心して働け』と言われた」「仕事内容は家族にも内緒だった」。1943年度に入学した市立広高等女学校の同級生3人がことしも広工廠での思い出を語り合った。高齢になり、定期的に集まる仲間は減ったが「戦時下の青春」を共有した絆は強い。

「やけどだらけ」

 1学年100人で、い組は造機部、ろ組は会計部へ。い組の福岡都喜子さん(96)=呉市川尻町=は、人間魚雷「回天」のスクリューを造る鋳造工場で午前7時から12時間働いた。溶けた鉄が固まる前にしゃくで素早く鋳型に入れる作業では「火の粉が飛んできてやけどだらけだった」。

 広地区を襲った45年5月5日の大空襲では、爆撃機がカラスの群れに見えた。防空壕(ごう)の奥に逃れ、爆風から眼球と鼓膜を守るため、中指で目を押さえ、親指で耳をふさいだ。同級生は皆無事だったが、外に出ると多くの死体が横たわり、工場は壊滅していた。

 本部事務所も焼失し、玄関上にあった直径約20センチの菊の御紋が行方不明に。新たに鋳造を任されたものの「材料は真ちゅうではなく本物の金地金。不慣れだから失敗しちゃって」。完成することなく終戦を迎えた。玉音放送の翌日、広場に集められ「長い間ご苦労さま」と工廠長から敬礼され、門を出た。

吉浦中に寄宿舎

 造機部が解散した後も会計部の有場美千子さん(96)=東広島市西条=と大島よし子さん(96)=呉市長迫町=は工員たちの退職金の計算に追われ、45年末まで働いた。「給与計算に必要だから空襲でも名簿と帳簿を持って逃げたくらい」と苦笑いする。終戦後、骨組みだけが残った工場で、毛布1枚をもらって寝泊まりした。長机に横たわると美しい星空が見えた。

 44年春以降、各地から女学生が集められた。呉市狩留賀町の吉浦中の敷地には呉工廠で働いた少女たちの寄宿舎があった。校庭に立つ記念碑の碑文には「広島、島根、愛媛の三県から約四千人が動員された」とあり、25の校名が記されている。

 学徒動員の歴史を調べている県原水禁代表委員の金子哲夫さん(76)=広島市=は「学業半ばで親元から引き離され、危険な作業に従事した。帰郷時に広島駅で被爆した人も多い。青春を犠牲にした事実を伝えたい」と思いを寄せる。

(2025年6月24日朝刊掲載)

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