ヒロシマの記録―遺影は語る 広島市女1年、243人の被爆死確認 4人に3人が遺骨不明
00年6月22日
広島市に原爆が投下された一九四五年八月六日、国の学徒勤労令により動員され、爆心地近くで作業中の生徒全員が死亡した広島市立第一高等女学校(市女、現・舟入高)一年生について、中国新聞社は二十一日、遺族たちの協力を得て被爆死状況をまとめた。被災地である現在の平和記念公園(中区)南側に建つ市女原爆慰霊銘碑に刻まれる一年生二百七十七人のうち、二百四十三人の詳しい状況が判明した。確認死没者の九三%、二百二十六人がその日に爆死し、家族らの懸命な捜索にもかかわらず四人に三人にあたる百八十四人は遺骨が見つかっていない。
市女一年生は、二年生(二百六十四人被爆死)とともに県庁があった旧中島地区で、空襲に備えての防火地帯を設けるため、今は平和大通りとなっている一帯の建物疎開作業に就いていた。
調査は、市女原爆遺族会(真田安夫会長)が編さんした資料や舟入高が受け継ぐ記録、昨年に二年生の被災状況(二百二十六人を確認)を中国新聞社がまとめた際に寄せられた情報を基に、死没生徒一人ひとりの遺族を捜した。
詳細が分かった二百四十三人のうち、遺族が死去を八月六日と確認・判断しているのは二百二十六人、七日は三人、八日は四人などと八月内の死者は二百四十一人を数えた。作業に向かう途中などに被爆していた二人を含め、九月四日までに全員が亡くなっていた。最期を肉親にみとられていたのは十二人にすぎない。
生徒の大半は広島デルタの旧市内に住み、同居家族のうち、原爆投下の朝、自宅などにいたり、他の場所での動員作業に出たりしていた父や母、きょうだいの計二百六人も四五年末までに死没していた。同じ市女に通い姉妹で亡くなっていたのは八人いた。
市女は、爆心地から二・二キロ、現在の中区舟入川口町にあり、校舎は全壊を免れた。しかし、一年生から四年生までと専攻科の全生徒が学徒動員され、生徒六百六十六人と、引率した教員十人の計六百七十六人が被爆死。学校としては広島原爆で最大の犠牲者を出した。
(2000年6月22日朝刊掲載)
市女一年生は、二年生(二百六十四人被爆死)とともに県庁があった旧中島地区で、空襲に備えての防火地帯を設けるため、今は平和大通りとなっている一帯の建物疎開作業に就いていた。
調査は、市女原爆遺族会(真田安夫会長)が編さんした資料や舟入高が受け継ぐ記録、昨年に二年生の被災状況(二百二十六人を確認)を中国新聞社がまとめた際に寄せられた情報を基に、死没生徒一人ひとりの遺族を捜した。
詳細が分かった二百四十三人のうち、遺族が死去を八月六日と確認・判断しているのは二百二十六人、七日は三人、八日は四人などと八月内の死者は二百四十一人を数えた。作業に向かう途中などに被爆していた二人を含め、九月四日までに全員が亡くなっていた。最期を肉親にみとられていたのは十二人にすぎない。
生徒の大半は広島デルタの旧市内に住み、同居家族のうち、原爆投下の朝、自宅などにいたり、他の場所での動員作業に出たりしていた父や母、きょうだいの計二百六人も四五年末までに死没していた。同じ市女に通い姉妹で亡くなっていたのは八人いた。
市女は、爆心地から二・二キロ、現在の中区舟入川口町にあり、校舎は全壊を免れた。しかし、一年生から四年生までと専攻科の全生徒が学徒動員され、生徒六百六十六人と、引率した教員十人の計六百七十六人が被爆死。学校としては広島原爆で最大の犠牲者を出した。
(2000年6月22日朝刊掲載)