ヒロシマの記録―遺影は語る 広島市女1年 新たに7人判明 旧友から3人の写真も
00年7月30日
「ヒロシマの記録―遺影は語る」で六月にまとめた広島市立第一高女(市女、現・舟入高)一年生の被爆死状況について、遺族らからの連絡により二十九日までに、さらに七人の詳細が分かった。死没状況を確認できた一年生は、市女原爆慰霊銘碑に刻まれる二百七十七人のうち二百五十三人となった。九三%に当たる二百三十六人が被爆当日に死去していた。また、新たに三人の遺影が旧友から寄せられた。
六クラスからなる市女一年生、一人ひとりの被爆死状況をまとめた「遺影は語る」(六月二十二日付と二十三日付朝刊)を見た死没生徒の親族や同窓生を通じ東京、岡山、宮崎などに住むきょうだいに連絡がついた。
遺影は、生前の写真が残っていなかった生徒三人について、同じ出身小学校(当時は国民学校)の旧友から提供された。これで一年生の遺影は二百二十三人を数えた。
市女一年生は、国の学徒勤労令により、現在は広島市中区の平和記念公園となっている旧材木町南側の建物疎開作業に就き、一緒にいた二年生二百六十四人とともに全員が被爆死した。
《記事の読み方》死没者の氏名(満年齢)▽原爆が投下された1945年8月6日の住所▽出身小学校(当時は国民学校)▽遺族が確認、または判断する死没日▽被爆死状況および家族らの捜索状況▽45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料に基づく。(敬称略)
▼1組
▽石本節子(12)
広島市段原末広町(南区段原4丁目)▽段原小▽8月6日▽製綿業の父米造らが8日朝、元安川の雁木(がんぎ)で遺体を見つけ、頭髪やつめを持ち帰る。義理の妹の妙子は「節ちゃんは、豊田郡安芸津町に疎開していた母たちにあて『メロンを残しておくから、お盆に戻ったら一緒に食べようね。会えなくて毎日さびしいです』としたためたそうです。義母は生前、弟の面倒をよく見る優しい子だったと思い出しては話していました。11年前に他界した際、節ちゃんの手紙と頭髪、つめを一緒にひつぎに納め、送りました」。
▼2組
▽井手口殷子(たかこ)(12)
広島市宇品町(南区)▽宇品小▽8月6日▽姉文子が町内の救護班員として当日夕から捜しに入る。遺骨は不明。市女卒業生でもある姉は「妹は、級友の多くが物資の不足から陶製の校章だった中、私のお下がりの金属製を喜んで着けていました。裏に『イデグチ』と片仮名で名前が彫ってあり翌年、市女の生徒さんが作業現場跡で見つけ、届けてくださいました。やっぱり帰りたかったんじゃねと思い、仏壇に納めました」。
▼3組
▽中村文子(12)
広島市舟入本町(中区)▽神崎小▽8月6日▽遺骨は不明。佐伯郡津田町(佐伯町)にいたいとこ代吏子は「同い年で、幼いころから愛称でイッコちゃんと呼んでいました。8月に入り、『焼けたらもったいないから持ってきたんよ』と、ままごと用の小さなたんすや鏡台を携え、泊まりがけで訪ねてきました。私の妹を交えて3人で遊び、原爆の2日前に『また来るから』と木炭バスで戻って行きました。ひもじいばかりで、平和な時代を知ることなく逝ったイッコちゃんを思うとたまりません」。
▼5組
▽奥田美智枝(13)
▽梶川洋子(13)
広島市中広北町(西区)▽三篠小▽8月6日▽呉海軍工廠(しょう)の寮に住み動員されていた市立第一工業学校4年の兄寿夫が7日昼、軍の蒸気船で宇品港に上陸し捜すが、遺骨は不明。「前日に休みが取れ、1カ月ぶりに帰宅しました。寮に戻る6日早朝、まだ蚊帳の中で寝返りを打っていた妹を見たのが最後の別れとなりました。その姿がありありと残り、今もって市女慰霊碑に参るという気持ちの整理がつきません」▽大分県の海軍航空部隊から帰宅していた海軍少尉の父俊治(42)は、爆心2・3キロの楠木町4丁目の鉄工所に向かい、遺骨は不明。
▽長岡艶子(12)
▽松原英子(13)
▽山本貞子(13)
広島市己斐本町(西区)▽己斐小▽8月6日▽遺骨は不明。爆心3・3キロの広島女専(現・広島女子大)講堂で被爆した1年の姉智子は「前夜の空襲警報で町内の防空ごうに避難した際、妹はおびえて私にしがみついてきました。最期はどうだったのか…。だれも知った人がいない所で死んだのではないかと思うと、胸が痛みます。3姉妹とも市女に通い、一番上の姉の影響を受け、幼いころから吉屋信子の小説や雑誌を熱心に読む文学少女でした」▽芸備銀行(現・広島銀行)勤務の姉妙子(18)は、爆心260メートルにあった紙屋町の本店で爆死。
▼6組
▽齋藤裕子(ひろこ)(13)
広島市横堀町(中区広瀬町)から家族7人で疎開していた佐伯郡井口村(西区)から通っていた▽本川小▽8月6日▽和菓子製造卸の父次郎らと市女4年の姉明子が7日から捜す。遺骨は不明。姉は「裕子ちゃんはおなかをこわして前日まで3日間寝込んでいました。ところが『授業は休んでも追いつけるけど作業はお国のためだから』と鉢巻きを締めて出ました。焼け跡でその言葉が胸を突き、父に泣くなと言われても涙が止まらず、裕子ちゃんの名前を叫び続けました」。
▽渡部三代子(12)
広島市鍛冶屋町(中区本川町1丁目)▽本川小▽8月6日▽遺骨は不明。結婚して奈良県にいた姉佐々木眞砂子は「原爆の5カ月前に、夫と二人で実家を訪ねました。妹は、夫が話し掛けても恥ずかしがり、私の背中に隠れました。私の母校でもある市女で思春期を迎えようとしていたのに…。胸が詰まります」。市女慰霊銘碑に刻まれる「渡辺三代子」は誤記▽米穀商の父戒三(51)と母春代(49)、市女を卒業して町内の食糧配給事務所に勤めていた姉菊枝(22)の3人の遺骨は不明。爆心410メートルの本川小に通っていた3年の妹由紀子(8つ)は、安佐郡古市町(安佐南区)の親族宅で26日死去。
(2000年7月30日朝刊掲載)
六クラスからなる市女一年生、一人ひとりの被爆死状況をまとめた「遺影は語る」(六月二十二日付と二十三日付朝刊)を見た死没生徒の親族や同窓生を通じ東京、岡山、宮崎などに住むきょうだいに連絡がついた。
遺影は、生前の写真が残っていなかった生徒三人について、同じ出身小学校(当時は国民学校)の旧友から提供された。これで一年生の遺影は二百二十三人を数えた。
市女一年生は、国の学徒勤労令により、現在は広島市中区の平和記念公園となっている旧材木町南側の建物疎開作業に就き、一緒にいた二年生二百六十四人とともに全員が被爆死した。
《記事の読み方》死没者の氏名(満年齢)▽原爆が投下された1945年8月6日の住所▽出身小学校(当時は国民学校)▽遺族が確認、または判断する死没日▽被爆死状況および家族らの捜索状況▽45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料に基づく。(敬称略)
▼1組
▽石本節子(12)
広島市段原末広町(南区段原4丁目)▽段原小▽8月6日▽製綿業の父米造らが8日朝、元安川の雁木(がんぎ)で遺体を見つけ、頭髪やつめを持ち帰る。義理の妹の妙子は「節ちゃんは、豊田郡安芸津町に疎開していた母たちにあて『メロンを残しておくから、お盆に戻ったら一緒に食べようね。会えなくて毎日さびしいです』としたためたそうです。義母は生前、弟の面倒をよく見る優しい子だったと思い出しては話していました。11年前に他界した際、節ちゃんの手紙と頭髪、つめを一緒にひつぎに納め、送りました」。
▼2組
▽井手口殷子(たかこ)(12)
広島市宇品町(南区)▽宇品小▽8月6日▽姉文子が町内の救護班員として当日夕から捜しに入る。遺骨は不明。市女卒業生でもある姉は「妹は、級友の多くが物資の不足から陶製の校章だった中、私のお下がりの金属製を喜んで着けていました。裏に『イデグチ』と片仮名で名前が彫ってあり翌年、市女の生徒さんが作業現場跡で見つけ、届けてくださいました。やっぱり帰りたかったんじゃねと思い、仏壇に納めました」。
▼3組
▽中村文子(12)
広島市舟入本町(中区)▽神崎小▽8月6日▽遺骨は不明。佐伯郡津田町(佐伯町)にいたいとこ代吏子は「同い年で、幼いころから愛称でイッコちゃんと呼んでいました。8月に入り、『焼けたらもったいないから持ってきたんよ』と、ままごと用の小さなたんすや鏡台を携え、泊まりがけで訪ねてきました。私の妹を交えて3人で遊び、原爆の2日前に『また来るから』と木炭バスで戻って行きました。ひもじいばかりで、平和な時代を知ることなく逝ったイッコちゃんを思うとたまりません」。
▼5組
▽奥田美智枝(13)
▽梶川洋子(13)
広島市中広北町(西区)▽三篠小▽8月6日▽呉海軍工廠(しょう)の寮に住み動員されていた市立第一工業学校4年の兄寿夫が7日昼、軍の蒸気船で宇品港に上陸し捜すが、遺骨は不明。「前日に休みが取れ、1カ月ぶりに帰宅しました。寮に戻る6日早朝、まだ蚊帳の中で寝返りを打っていた妹を見たのが最後の別れとなりました。その姿がありありと残り、今もって市女慰霊碑に参るという気持ちの整理がつきません」▽大分県の海軍航空部隊から帰宅していた海軍少尉の父俊治(42)は、爆心2・3キロの楠木町4丁目の鉄工所に向かい、遺骨は不明。
▽長岡艶子(12)
▽松原英子(13)
▽山本貞子(13)
広島市己斐本町(西区)▽己斐小▽8月6日▽遺骨は不明。爆心3・3キロの広島女専(現・広島女子大)講堂で被爆した1年の姉智子は「前夜の空襲警報で町内の防空ごうに避難した際、妹はおびえて私にしがみついてきました。最期はどうだったのか…。だれも知った人がいない所で死んだのではないかと思うと、胸が痛みます。3姉妹とも市女に通い、一番上の姉の影響を受け、幼いころから吉屋信子の小説や雑誌を熱心に読む文学少女でした」▽芸備銀行(現・広島銀行)勤務の姉妙子(18)は、爆心260メートルにあった紙屋町の本店で爆死。
▼6組
▽齋藤裕子(ひろこ)(13)
広島市横堀町(中区広瀬町)から家族7人で疎開していた佐伯郡井口村(西区)から通っていた▽本川小▽8月6日▽和菓子製造卸の父次郎らと市女4年の姉明子が7日から捜す。遺骨は不明。姉は「裕子ちゃんはおなかをこわして前日まで3日間寝込んでいました。ところが『授業は休んでも追いつけるけど作業はお国のためだから』と鉢巻きを締めて出ました。焼け跡でその言葉が胸を突き、父に泣くなと言われても涙が止まらず、裕子ちゃんの名前を叫び続けました」。
▽渡部三代子(12)
広島市鍛冶屋町(中区本川町1丁目)▽本川小▽8月6日▽遺骨は不明。結婚して奈良県にいた姉佐々木眞砂子は「原爆の5カ月前に、夫と二人で実家を訪ねました。妹は、夫が話し掛けても恥ずかしがり、私の背中に隠れました。私の母校でもある市女で思春期を迎えようとしていたのに…。胸が詰まります」。市女慰霊銘碑に刻まれる「渡辺三代子」は誤記▽米穀商の父戒三(51)と母春代(49)、市女を卒業して町内の食糧配給事務所に勤めていた姉菊枝(22)の3人の遺骨は不明。爆心410メートルの本川小に通っていた3年の妹由紀子(8つ)は、安佐郡古市町(安佐南区)の親族宅で26日死去。
(2000年7月30日朝刊掲載)