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被爆から2ヵ月教え子へ弔辞 広島市女校長直筆 教諭遺族が寄贈へ

 広島原爆で最も多くの生徒が亡くなった広島市立第一高等女学校(市女、現・舟入高校)が被災した一九四五年の十月三十日に営んだ慰霊祭で、当時の宮川造六校長(七五年死去)が読んだ直筆の弔辞が残っていることが分かった。生徒を覆うように防火水槽の中で死んでいた森政夫教諭の長男で、神奈川県茅ケ崎市に住む森一夫さん(63)が保存していた。「教え子を失った関係者の悲痛なまでの心情がうかがえる。学校で役立ててほしい」と、舟入高校への寄贈を申し出た。

 宮川校長は四五年八月六日の朝、現在は平和記念公園となっている旧材木町南側での建物疎開作業に一、二年生を引率。訓示をした後、東区にあった県学務課に向かい一命を取り留めた。

 「死屍累々(ししるいるい)としてその惨状は言語に絶し、諸先生並(ならび)に生徒の屍体を求むれ共(ども)、区別つかずこれを認むるによしなく」と生徒たちを捜し歩いた様子を市女の用紙十枚にペンでつづっている。

 弔辞は、森教諭の父から八五年に死去した教諭の妻を経て、一夫さんが引き継ぎ、自宅仏壇に供えていた。広島の知人から舟入高校で市女の資料を展示していると聞き、一周忌の弔辞とともに寄贈を決めた。

 校長だった父の遺志を継いで毎年の市女慰霊祭へ参列している広島市西区の長男宮川裕行さん(70)は「国のためにと生徒と励んでいたのに、結果として大きな犠牲を払わされた無念さが伝わってきます」と、父の直筆を確かめた。

 舟入高校の福原紘治郎校長は「関係者や遺族が何を感じ、思ったのか。今の生徒たちが平和について考えるための資料として活用したい」と話している。

 市女は、建物疎開作業中に被爆するなどした一、二年生五百四十一人を含め、生徒六百六十六人と教員十人が原爆の犠牲となった。

(2000年7月31日朝刊掲載)

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