動員被爆を語り継ごう 友277人死去 「生き残って申し訳ない」 広島市女、同級生「沈黙」破る
00年8月6日
原爆投下時、広島市立第一高等女学校(市女、現・舟入高校)一年生だった五人が五日、市女原爆慰霊碑が立つ広島市中区の元安川右岸をそろって訪れ、亡き同級生二百七十七人の死を悼んだ。「生き残ったのが申し訳ない」と表立ったことを避けてきた彼女たち。六日の慰霊祭準備に当たる後輩の生徒と対面すると、沈黙を破り、級友たちへの思いや被災現場の様子を語り、「原爆で最多の犠牲者を出した学校の歴史を次の後輩にも伝えてほしい」と呼び掛けた。
広島市内に住む角田英子さん(68)、高木登志子さん(68)、槌本与子さん(67)、友田陽子さん(67)、吉田和子さん(68)。「市女二十七期一同」と記した花束を供え、線香を手向けた。 市女一、二年生は、現在は平和記念公園となった旧材木町の南側一帯の建物疎開作業に動員され、五百四十一人が被爆死した。
角田さんたち五人は、家庭の事情や体調不良で当日は動員作業を欠席した。複雑な思いから、これまで個々にひっそりと碑を訪れるだけだった。中国新聞社が一年生の被爆死記録を今年まとめたのを機に、集まって亡き友を慰霊することになった。
「原爆の前日も今日のように暑い中、皆小さな体でかわらを『よいしょ』と片付けたのよ…」。母の看病のため爆心地から一・八キロの西区内の自宅で被爆した吉田さんが、碑の周りを清掃した舟入高生徒会の二年生五人に語り掛けた。
当日、島しょ部の祖母宅に行っていた角田さんは「作業に出た友達は遺体の区別もつかないほどの最期だったと聞き、気が狂いそうになった」。佐伯区に疎開していた槌本さん、安佐南区から通っていた高木さんは「この場所で遺品を捜し、学校に持ち帰ったのよ」と、当時十二、十三歳で遭った重くつらい体験を言葉少なに振り返った。
体調を崩して爆心地から一・二キロの西区の自宅で被爆し右目の視力ばかりか、母と妹を失った友田さんは「あなたたちの先輩がなぜ死ななくてはならなかったのか。学校の歴史をひもといて、しっかりと受け止めてほしい」とさとすように語った。
生徒会長の迫田弘子さん(17)たちは「作業に出た生徒が全員死んだことなど、知らないことが多かった。先輩の思いを胸に慰霊祭で献花します」と話していた。
(2000年8月6日朝刊掲載)
広島市内に住む角田英子さん(68)、高木登志子さん(68)、槌本与子さん(67)、友田陽子さん(67)、吉田和子さん(68)。「市女二十七期一同」と記した花束を供え、線香を手向けた。 市女一、二年生は、現在は平和記念公園となった旧材木町の南側一帯の建物疎開作業に動員され、五百四十一人が被爆死した。
角田さんたち五人は、家庭の事情や体調不良で当日は動員作業を欠席した。複雑な思いから、これまで個々にひっそりと碑を訪れるだけだった。中国新聞社が一年生の被爆死記録を今年まとめたのを機に、集まって亡き友を慰霊することになった。
「原爆の前日も今日のように暑い中、皆小さな体でかわらを『よいしょ』と片付けたのよ…」。母の看病のため爆心地から一・八キロの西区内の自宅で被爆した吉田さんが、碑の周りを清掃した舟入高生徒会の二年生五人に語り掛けた。
当日、島しょ部の祖母宅に行っていた角田さんは「作業に出た友達は遺体の区別もつかないほどの最期だったと聞き、気が狂いそうになった」。佐伯区に疎開していた槌本さん、安佐南区から通っていた高木さんは「この場所で遺品を捜し、学校に持ち帰ったのよ」と、当時十二、十三歳で遭った重くつらい体験を言葉少なに振り返った。
体調を崩して爆心地から一・二キロの西区の自宅で被爆し右目の視力ばかりか、母と妹を失った友田さんは「あなたたちの先輩がなぜ死ななくてはならなかったのか。学校の歴史をひもといて、しっかりと受け止めてほしい」とさとすように語った。
生徒会長の迫田弘子さん(17)たちは「作業に出た生徒が全員死んだことなど、知らないことが多かった。先輩の思いを胸に慰霊祭で献花します」と話していた。
(2000年8月6日朝刊掲載)