広島きょう原爆の日 亡き友へ被爆の記、追悼祈念館に納める 1年生321人が犠牲になった広島二中の和田さん
02年8月6日
『不気味な静けさと暗さ。目の前で校舎が崩壊した』
建物疎開の作業中に被爆し、一年生三百二十一人が犠牲になった広島県立広島第二中学校(現・観音高)で、生き残った数少ない級友の一人が初めて被爆体験記を書いた。死を逃れた「負い目」を今も抱くものの、「亡き友の死に報いたい」。しまいこんだ記憶をつづり、一日開館した国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)に納めた。
南区向洋新町、無職和田耕治さん(69)。あの日、旧中島新町(中区)での作業に動員された級友とは別に、けがで作業できない先輩に付き合い、自習のため爆心地から約一・八キロの学校にいた。木炭トラックのわきで二限目が始まるのを待っていた瞬間だった。
『目の前の畑の土が爆風で吹っ飛ばされ、舞い上がっていました。見る見るうちに畝(うね)の土がなくなり、大粒の荒石だけになっていきます。
閃光(せんこう)も爆風も止まり、不気味な静けさと夜のような暗さに一変しました。百メートル先にある三棟の校舎が同時に崩壊する瞬間が目に入りました。』
自宅にたどり着いた後、中島新町で作業していた町内の同級生たちの安否を尋ねて回った。
『夕刻、三人の友人が家族の捜索で家に帰ってきました。みんな全身やけどで顔ははれ上がり、面影はありません。
一人はかすかな声で「和田、よかったのー」と、一人は「仇(かたき)をとってくれいのー」。翌朝再び見舞いに行ったら三人とも息を引きとっていました。』
連日の疲れで、休んだ建物疎開作業。負い目が、体験記ににじむ。
『どの家のおばさんも、わが子の亡骸(なきがら)を前にして、「あんたよかったねえ、うちの子は」と絶句するのを聞きながら返す言葉も出ず、生きてここにいるのが後ろめたい気持ちでいっぱいでした。
ご遺族の方々に対面するのがなぜか阻まれて、香がおちる深夜、(二中の慰霊碑に)妻を伴って静かに手を合わせていた次第です。』
和田さんは、中国新聞が三年前、「ヒロシマの記録―遺影は語る」で掲載した広島二中特集をきっかけに、級友たちと連絡を取り始めた。生存が確認されている同級生は二十人余り。
六日、平和記念公園の本川左岸沿いである広島二中慰霊祭に参列する。
(2002年8月6日朝刊掲載)