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[ヒロシマドキュメント 1946年] 6月 鯉城園 職業野球に注力

 1946年6月。広島市の広島駅(現南区)周辺で森田克巳さんが劇場やカフェ、料亭などを抱える娯楽チェーンを営んでいた。社名は「鯉城園」。併せて力を入れていたのが本格的な職業野球チームだった。

 鯉城園は6月創刊の雑誌「郷友」に広告を掲載。「街のオアシス」として広島駅前や荒神橋近くで10店ほどを営み、的場町近くにダンスホールも完成予定だった(8月4日付本紙)。その野球チームの鯉城園倶楽部(くらぶ)には、復員してきた地元の野球部出身者たちが参加していた。

 広島東洋カープの歩みをたどった「カープ30年」(80年に中国新聞社刊)によれば、戦後まもなく広島県内では軟式チームが次々と結成され、西練兵場跡(現中区基町)の広場でトーナメント戦を繰り返していた。鯉城園倶楽部は軟式から出発し、メンバーを加えて硬式へ力を伸ばした。

 旧制広陵中(現広陵高)出身で、後に西鉄ライオンズ(現西武)の選手となる田部輝男さんは46年5月にニューギニアから復員し、チームに加わった。「給料もくれる、という。一も二もなく参加しました。野球がやれる喜びは格別でした」(95年7月3日付本紙)。他には後のカープ監督の門前真佐人さんたちもいた。

 7~8月には都市対抗野球大会があり、鯉城園倶楽部は県、中国地方を勝ち抜いて全国へ駒を進めた。東京・後楽園球場での初戦では優勝することになる大日本土木(岐阜)に延長戦の末、7-10で敗れた。プロ化の話もあったが、この大会で主力選手の存在が知られ、他のプロ球団に引き抜かれる。あえなく解散し「幻のプロ球団」(カープ30年)となった。

 カープの結成披露式は50年1月に、倶楽部が練習場にしていた西練兵場で開かれる。森田さんの妻よし子さんは球団経営を助ける「たる募金」などに関わり、女性後援会長としてカープを支えることになる。(山本真帆)

(2025年6月25日朝刊掲載)

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