戦後80年 芸南賀茂 工廠の学徒たち <下> 命軽視 空襲後も稼働
25年6月25日
日本一の兵器製造所と呼ばれた呉海軍工廠(こうしょう)の学徒動員。労働力不足のための窮余の策だったが、多くの少年は「お国のため」と参加した。旧県立呉第二中学校(呉二中、現宮原高)3年だった佐藤康則さん(95)=呉市宮原=もその一人だ。
特攻隊員見送る
1944年6月、水雷部に配属。魚雷発射管の検査工として潜水艦に出入りし公式試験にも参加した。「新型艦が見られると喜々としていた。無邪気でしたね」。45年には周南市大津島にあった人間魚雷「回天」の基地に出張し、特攻隊の出撃を見送った。大切な人からの贈り物だろうか。大きなセルロイド製人形を抱きしめる隊員の姿がまぶたに焼き付いている。
6月22日、呉工廠は壊滅する。米軍側の記録によると、162機のB29が約800トンの爆弾を集中的に投下した。佐藤さんは、横穴式防空壕(ごう)に逃げ込み命拾いした。
だが、工場は骨組みだけになり、近くの壕では約30人の女子挺身(ていしん)隊員が犠牲になった。そこは生産中止になった回天の胴体を活用した直径2メートルほどの筒状の壕だった。爆撃の影響で浸水。佐藤さんが見た女性の遺体は水に膨れていた。
死臭漂う街通勤
この空襲を、同じ呉二中の2年で水雷部にいた藤本黎時さん(93)=広島市安佐南区=も覚えている。短期間の特訓で旋盤の使い方を覚え、魚雷の部品作りを担当した。45年4月からは交代勤務が始まり、クラス全員が工場裏の丘に立つ「忠誠寮」から通った。
空襲は、準夜勤明けの朝だった。8時ごろに警報のサイレンで起き、教員の指示で裏山の防空壕へ。爆弾が落ちるたび天井の砂が落ちてくる。生きた心地がしなかった。外に出ると寮が炎上していた。「不謹慎ですが、これで夜の勤務がなくなるとほっとしました」
寮の焼け跡は臨時の火葬場となった。同級生の遺体にすがって泣く女学生の姿は今も忘れられない。それでも工廠は稼働を続ける。藤本さんは死臭の漂う街を、西惣付町の自宅から通勤した。
国の未来を背負う若者の命よりも兵器生産が優先される時代だった。「年端のいかない子どもを強制労働に駆り出していた時点で、日本は戦争に負けていたんだと思います」(栾暁雨)
(2025年6月25日朝刊掲載)
特攻隊員見送る
1944年6月、水雷部に配属。魚雷発射管の検査工として潜水艦に出入りし公式試験にも参加した。「新型艦が見られると喜々としていた。無邪気でしたね」。45年には周南市大津島にあった人間魚雷「回天」の基地に出張し、特攻隊の出撃を見送った。大切な人からの贈り物だろうか。大きなセルロイド製人形を抱きしめる隊員の姿がまぶたに焼き付いている。
6月22日、呉工廠は壊滅する。米軍側の記録によると、162機のB29が約800トンの爆弾を集中的に投下した。佐藤さんは、横穴式防空壕(ごう)に逃げ込み命拾いした。
だが、工場は骨組みだけになり、近くの壕では約30人の女子挺身(ていしん)隊員が犠牲になった。そこは生産中止になった回天の胴体を活用した直径2メートルほどの筒状の壕だった。爆撃の影響で浸水。佐藤さんが見た女性の遺体は水に膨れていた。
死臭漂う街通勤
この空襲を、同じ呉二中の2年で水雷部にいた藤本黎時さん(93)=広島市安佐南区=も覚えている。短期間の特訓で旋盤の使い方を覚え、魚雷の部品作りを担当した。45年4月からは交代勤務が始まり、クラス全員が工場裏の丘に立つ「忠誠寮」から通った。
空襲は、準夜勤明けの朝だった。8時ごろに警報のサイレンで起き、教員の指示で裏山の防空壕へ。爆弾が落ちるたび天井の砂が落ちてくる。生きた心地がしなかった。外に出ると寮が炎上していた。「不謹慎ですが、これで夜の勤務がなくなるとほっとしました」
寮の焼け跡は臨時の火葬場となった。同級生の遺体にすがって泣く女学生の姿は今も忘れられない。それでも工廠は稼働を続ける。藤本さんは死臭の漂う街を、西惣付町の自宅から通勤した。
国の未来を背負う若者の命よりも兵器生産が優先される時代だった。「年端のいかない子どもを強制労働に駆り出していた時点で、日本は戦争に負けていたんだと思います」(栾暁雨)
(2025年6月25日朝刊掲載)