[歩く 聞く 考える] 戦後80年と戦艦大和 生々しい死を抜きにできない 立命館大アジア・日本研究所専門研究員 塚原真梨佳さん
25年6月25日
呉で生まれた旧海軍の戦艦大和が鹿児島沖で米軍に撃沈されて80年。日本敗戦を象徴した巨大艦は技術大国の礎になったとよく語られるが、日本人の戦後の大和観はさまざまに変遷したらしい。それを読み解く著書「戦艦大和の歴史社会学」(新曜社)を刊行した立命館大アジア・日本研究所(大阪府茨木市)専門研究員の塚原真梨佳さん(33)に聞いた。(特別論説委員・岩崎誠、写真も)
―なぜ戦艦大和に関する研究を始めたのですか。
美大出身でドキュメンタリー映像に携わり、母に聞いた大伯父の戦死をテーマにしたのがきっかけです。沈没した佐世保所属の戦艦金剛に乗っていました。戦艦という軍事技術の所産の名前は残るが一人一人の戦死という異常な死が漂白され、語られない状況に興味を持ったのです。立命館の大学院に入って歴史社会学を専攻し、戦艦という技術の歴史がどう継承されたかを考えるメルクマール(指標)として大和に注目しました。
―研究の手法は。
雑誌や書籍などメディア空間の言説を軸にしました。特に軍事誌「丸」は元技術将校らの寄稿など大和の「語り」をリードし、そこで示された見方が定説化していきます。1950年代は大和が海の藻くずと消えた無用の長物だったとしても技術だけ見れば世界一のメカニズムがあったと論じられました。世界最大排水量、最大主砲の戦艦を開発した技術力が日本民族にあったという語られ方は、造船大国として復活する中で受け入れられやすい物語でした。
―乗員約3千人の戦死は語られなかったのですか。
悲劇的な死を遂げた将兵の戦記も出ていましたが、戦場体験とメカニズムの語りは切り離されたと思います。平和的な価値観が社会にあって旧軍賛美が反動と見なされる中でも、大和に関しては目立った戦績がなかったために技術力のみ強調することが可能だったと考察しています。
―やがて日本は防衛力強化や兵器国産化に至ります。
戦争は罪悪だという意識の中で、兵器本来の目的を透明化して加害性を脇に置いて語ればいいという科学技術の中立論が60年代に出てきます。その頃に造船だけでなく光学機器や新幹線など幅広い民生技術に大和の遺産を生かしたとする「科学技術立国の礎」論も語られ始めるのです。
―しかし日本の高度成長は終わりを告げました。
「第二の敗戦」と呼ばれ、造船なども不況で日本の競争力が立ち遅れる時期に大和論は退潮し、「丸」からも姿を消します。70年代に多発的な環境破壊が顕在化し、科学優先主義が曲がり角を迎えたことも大和のメカニズムを賛美する言説が後退する要因だったのではと思います。
その後、昭和史が総括されるうちに違った見方も生まれます。2000年代に反省を込めて大和が回顧されたことすらありました。戦時下の造船も西欧の模倣と拡大であって職人技的な応用はあっても独自性に乏しく、効率化し標準化して量産する発想に欠けていた、とするものです。
―呉市が大和ミュージアムを開館し、大人気を博したのは05年のことです。
大和に関する日本人の関心が低下する中で再び脚光が当たり、メディアにも取り上げられました。ローカルな視点から大和を語り直す博物館がナショナル(全国的)な言説の形成に影響を与えた意味は大きいと思います。呉の歴史は日本の歴史と切り離しては考えられません。今後も技術や経済にとどまらず日本人のアイデンティティーを下支えする役割を願っています。
―軍事技術礼賛だけになるのは問題ではないですか。
軍事技術は人の殺傷という目的を内在します。テクノロジーを語る中でも戦争がもたらす生々しい死や責任を抜きにできません。使われた時の加害、被害の歴史を断絶させてはならないと思います。現代に生きる私たちが軍事技術の歴史を学ぶ意義は偏狭なナショナリズムに溺れることなく、大和のような存在を二度と造り出さないで済む世界の実現のために科学技術を活用する方策を構想することにあるのではないでしょうか。
つかはら・まりか
沖縄県生まれ。成安造形大卒。情報科学芸術大学院大メディア表現研究科を経て2024年立命館大大学院社会学研究科博士後期課程修了。同年現職。博士(社会学)。論文に「戦艦三笠保存運動のメディア史」など。映像作家としても東京ビデオフェスティバル2013筑紫哲也賞など受賞多数。
(2025年6月25日朝刊掲載)
―なぜ戦艦大和に関する研究を始めたのですか。
美大出身でドキュメンタリー映像に携わり、母に聞いた大伯父の戦死をテーマにしたのがきっかけです。沈没した佐世保所属の戦艦金剛に乗っていました。戦艦という軍事技術の所産の名前は残るが一人一人の戦死という異常な死が漂白され、語られない状況に興味を持ったのです。立命館の大学院に入って歴史社会学を専攻し、戦艦という技術の歴史がどう継承されたかを考えるメルクマール(指標)として大和に注目しました。
―研究の手法は。
雑誌や書籍などメディア空間の言説を軸にしました。特に軍事誌「丸」は元技術将校らの寄稿など大和の「語り」をリードし、そこで示された見方が定説化していきます。1950年代は大和が海の藻くずと消えた無用の長物だったとしても技術だけ見れば世界一のメカニズムがあったと論じられました。世界最大排水量、最大主砲の戦艦を開発した技術力が日本民族にあったという語られ方は、造船大国として復活する中で受け入れられやすい物語でした。
―乗員約3千人の戦死は語られなかったのですか。
悲劇的な死を遂げた将兵の戦記も出ていましたが、戦場体験とメカニズムの語りは切り離されたと思います。平和的な価値観が社会にあって旧軍賛美が反動と見なされる中でも、大和に関しては目立った戦績がなかったために技術力のみ強調することが可能だったと考察しています。
―やがて日本は防衛力強化や兵器国産化に至ります。
戦争は罪悪だという意識の中で、兵器本来の目的を透明化して加害性を脇に置いて語ればいいという科学技術の中立論が60年代に出てきます。その頃に造船だけでなく光学機器や新幹線など幅広い民生技術に大和の遺産を生かしたとする「科学技術立国の礎」論も語られ始めるのです。
―しかし日本の高度成長は終わりを告げました。
「第二の敗戦」と呼ばれ、造船なども不況で日本の競争力が立ち遅れる時期に大和論は退潮し、「丸」からも姿を消します。70年代に多発的な環境破壊が顕在化し、科学優先主義が曲がり角を迎えたことも大和のメカニズムを賛美する言説が後退する要因だったのではと思います。
その後、昭和史が総括されるうちに違った見方も生まれます。2000年代に反省を込めて大和が回顧されたことすらありました。戦時下の造船も西欧の模倣と拡大であって職人技的な応用はあっても独自性に乏しく、効率化し標準化して量産する発想に欠けていた、とするものです。
―呉市が大和ミュージアムを開館し、大人気を博したのは05年のことです。
大和に関する日本人の関心が低下する中で再び脚光が当たり、メディアにも取り上げられました。ローカルな視点から大和を語り直す博物館がナショナル(全国的)な言説の形成に影響を与えた意味は大きいと思います。呉の歴史は日本の歴史と切り離しては考えられません。今後も技術や経済にとどまらず日本人のアイデンティティーを下支えする役割を願っています。
―軍事技術礼賛だけになるのは問題ではないですか。
軍事技術は人の殺傷という目的を内在します。テクノロジーを語る中でも戦争がもたらす生々しい死や責任を抜きにできません。使われた時の加害、被害の歴史を断絶させてはならないと思います。現代に生きる私たちが軍事技術の歴史を学ぶ意義は偏狭なナショナリズムに溺れることなく、大和のような存在を二度と造り出さないで済む世界の実現のために科学技術を活用する方策を構想することにあるのではないでしょうか。
つかはら・まりか
沖縄県生まれ。成安造形大卒。情報科学芸術大学院大メディア表現研究科を経て2024年立命館大大学院社会学研究科博士後期課程修了。同年現職。博士(社会学)。論文に「戦艦三笠保存運動のメディア史」など。映像作家としても東京ビデオフェスティバル2013筑紫哲也賞など受賞多数。
(2025年6月25日朝刊掲載)