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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2025年6月 旧陸軍被服支廠 解体危機 被爆者ら救う

 2025年6月。被爆者の内藤達郎さん(83)=広島市佐伯区=が、東京から修学旅行に訪れた中学生約40人を「旧陸軍被服支廠(ししょう)」(南区)に案内した。被爆時に爆風でくぼんだ鉄扉を外から見学し、工事中のため入れない敷地内の様子を映すモニターを眺めた。

 「被害と加害の両面を知ってこそ戦争の本質が分かる。原爆ドームが核の負の遺産ならば、被服支廠は戦争の負の遺産」と内藤さん。市民団体「旧被服支廠の保全を願う懇談会」の副代表で、案内時には「軍都」広島の一翼を担った被爆建物の史実も伝える。

 会を結成した14年当時は3棟を持つ広島県も1棟の国も存廃を決めていなかった。「解体危機を乗り越えて今日まで建物が残っているのは彼の情熱のたまもの」。共に保存を目指した初代代表、中西巌さんの生前をしのぶ。

 中西さんは、3歳で被爆した内藤さんよりも1世代上。1945年8月6日は広島高等師範学校付属中(現広島大付属中高)4年生の15歳で、被服支廠に学徒動員の作業に出ていた。被爆後、市中心部から逃げてきた負傷者の救護に当たった。

倉庫は「墓標」

 「暗い倉庫内は、『水、水、お母さん』などと呻(うめ)き声が響いていた。『水を飲ましてはいかん』との声もあったが、人々は倉庫内の防火水槽に次々に首を突っ込み、そのまま動かなくなった」(手記)。月日がたっても、倉庫を見ると遺体が焼かれる臭いがよみがえり、その姿は「墓標」だと感じた。

 08年、非政府組織(NGO)ピースボートの船旅に参加し、船上の学習会で被服支廠の保存を訴える。それを聞いていたのが、歯科技工士の仕事を休んで乗船していた内藤さんだった。「平和への思いの深さに心を打たれました」。下船後、会をつくる構想を聞くと共に仲間を集めた。

 会は歴史的価値を伝える見学会や講演会を繰り返し開き、中西さんは現地での被爆証言もして保存を訴えた。県は18年、平和学習の拠点とする改修案をまとめるが、翌年に一転。財政負担の重さなどを理由に、「2棟解体、1棟外観保存」案を示した。

 「びっくりして、すぐに県庁へ行った。話が違うじゃないかと」(内藤さん)。会は全棟保存を求める署名運動を始め、9130筆を県へ提出。保存を願う声は被爆者団体や若者たちにも広がった。県は21年に全3棟の耐震化を決め、国も足並みをそろえた。23年8月、中西さんはがんのため93歳で死去。5カ月後の24年1月、文化庁は全4棟を国重要文化財(重文)に指定した。

 解体は免れたが、保存・活用へ、中西さんは巨額の費用の確保を心配していた。「有効に使ってほしい」との遺言で100万円が県に託された。

たる募金提案

 内藤さんたちは重文指定の翌月、かつて球団経営の危機を救ったのと同様「たる募金」への協力を市内の街頭で呼びかけた。これも、広島東洋カープの大ファンだった中西さんの生前の提案。会はこれまでに200万円以上の寄付金を集め、今後も続けた上で県に届ける。

 被服支廠の具体的な活用策は未定。中西さんは丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」などの平和に関わる作品のレプリカ設置を願い、会は原爆資料館に並べきれない遺品の展示も提案している。「中を案内する窓口となり、遺志を継ぎたい」。内藤さんは工事を見守りながら耐震化後の自身の務めを思い描く。(山下美波)

(2025年6月25日朝刊掲載)

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