ドーム残し消えた爆心の街 「猿楽町」 元住民が再生へ 52年ぶり12人集う 追悼や記録掘り起こし
97年7月6日
原爆ドームがある広島市中区大手町一丁目の前身、「猿楽(さるがく)町」のゆかりの人たちが五日、五十二年ぶりに集い、消えた街の復元調査に乗り出すことを決めた。親や兄弟の遺骨も見つからなかった被爆者たちは、過酷な体験を持つがゆえに、これまで表立って体験を語ることもなかった。「自分たちが生まれ育った街の記録を残し、平和の礎としよう」。市民自身の手で新たな追悼と被災記録の掘り起こしが始まった。
ドーム南側の料理店に集まったのは、市内で連絡がついた七十八歳から五十五歳までの男女十二人。戦地にいた七十代の男性三人を除き、学徒徒動員先や疎開先で直接、あるいは入市被爆しながらも助かった。
集いを呼びかけ、現在も大手町一丁目でたばこ店を営む伊勢栄一さん(59)が「生き残った我々の務めとして街を復元し、亡くなった人たちの追悼もしよう」とあいさつ。被爆後の混乱が続く中、消息が互いに途切れた人たちは自己紹介を兼ねて「あの日」の体験や、その後の半生を語った。
西区に住む森冨茂雄さん(67)は「常友の屋号で寝具店をしていた家族四人が爆死しました」。両親と姉を失った佐伯区の永木博子さん(66)は「みそ屋をしてた岡本の二女です。七年前から広島に住んでいます」と言うと、隣の蔵田(旧姓笠井)淑子さん(71)が「お姉さんの『ふーちゃん』と親しかったの…」。蔵田さんの父の遺骨は今も不明だ。
出席者は五十二年の歳月を埋め合うかのように元安川で泳いだり、ドーム前身の広島県産業奨励館を走り回った幼いころの思い出を語り、消息を知る人の名前や連絡先を確かめ合った。
市の記録によると、猿楽町は戦前は二百六十世帯、千五十五人が居住していたが、戦時中の強制疎開で、被爆前の居住数や爆死者数は不明な部分が多い。一九六五年、大手町一丁目と紙屋町二丁目に編入され、町の名そのものも消えた。
この日集まった人たちは、かつての城下町だったことから親たちが使った「矢倉会」の名で、生存者たちの参加を呼び掛け、街並みの復元と、八月二日にドームそばの西向寺で法要を営むことを申し合わせた。伊勢さんは「関係者が健在なうちに、何としても自分たちの街をよみがえらせたい」と話している。連絡先はTEL082(247)5324。
(1997年7月6日朝刊掲載)
ドーム南側の料理店に集まったのは、市内で連絡がついた七十八歳から五十五歳までの男女十二人。戦地にいた七十代の男性三人を除き、学徒徒動員先や疎開先で直接、あるいは入市被爆しながらも助かった。
集いを呼びかけ、現在も大手町一丁目でたばこ店を営む伊勢栄一さん(59)が「生き残った我々の務めとして街を復元し、亡くなった人たちの追悼もしよう」とあいさつ。被爆後の混乱が続く中、消息が互いに途切れた人たちは自己紹介を兼ねて「あの日」の体験や、その後の半生を語った。
西区に住む森冨茂雄さん(67)は「常友の屋号で寝具店をしていた家族四人が爆死しました」。両親と姉を失った佐伯区の永木博子さん(66)は「みそ屋をしてた岡本の二女です。七年前から広島に住んでいます」と言うと、隣の蔵田(旧姓笠井)淑子さん(71)が「お姉さんの『ふーちゃん』と親しかったの…」。蔵田さんの父の遺骨は今も不明だ。
出席者は五十二年の歳月を埋め合うかのように元安川で泳いだり、ドーム前身の広島県産業奨励館を走り回った幼いころの思い出を語り、消息を知る人の名前や連絡先を確かめ合った。
市の記録によると、猿楽町は戦前は二百六十世帯、千五十五人が居住していたが、戦時中の強制疎開で、被爆前の居住数や爆死者数は不明な部分が多い。一九六五年、大手町一丁目と紙屋町二丁目に編入され、町の名そのものも消えた。
この日集まった人たちは、かつての城下町だったことから親たちが使った「矢倉会」の名で、生存者たちの参加を呼び掛け、街並みの復元と、八月二日にドームそばの西向寺で法要を営むことを申し合わせた。伊勢さんは「関係者が健在なうちに、何としても自分たちの街をよみがえらせたい」と話している。連絡先はTEL082(247)5324。
(1997年7月6日朝刊掲載)