ドームの街 91人原爆死 旧猿楽町 「空白」52年ぶり掘り起こす 往時の写真も発見
97年7月23日
原爆ドームを残して消えた街、「広島市猿楽(さるがく)町」の住民の詳しい被災、生存状況が二十二日までに、ゆかりの人たちの手で五十二年ぶりに掘り起こされた。一九四五年末までに確認された原爆による死者は九十一人で、うち七十六人が爆死していた。一方、生存者は世帯数で四十五、八十六人が健在なことが分かり、被爆前の街並みを収めた貴重な写真も見つかった。
猿楽町は百万都市・広島の中心部、現在の中区大手町一丁目と紙屋町二丁目に当たる。死没した住民の多くは世帯主、またはその妻、学童疎開年齢に達していなかった子どもたち。親たちは、国が命じた建物疎開により、市役所東側の「雑魚場町」(爆心地約一・一キロ)での家屋撤去作業に出て被爆し、遺骨が不明のままのケースが目立つ。
一家族のうち最も犠牲者が多かったのは七人で、朝の食卓を囲んでいた最中に爆死したとみられる。また、今も全容がはっきりしない原爆被災の状況を示すように、市の「原爆死没者名簿」の基となった調査と、遺族が確認した本人の被爆場所や名前、死亡年齢が違う例も多数あった。
遺族の大半は、学徒動員先などで被爆しながら助かったり、当時は市郊外の安佐南区などの疎開先から入市被爆した人たち。最高齢は百歳、最年少は父親が爆死した年末に生まれた五十一歳。
被災記録の掘り起こしは「子や孫に被爆の実態を伝えるためにも、われわれの手で街を復元し、犠牲者の追悼をしよう」と、現在もドームそばに住むたばこ店経営伊勢栄一さん(59)たちが呼び掛け、中国新聞社が今春から、生存遺族を確認し、その協力を得て記録や証言を集めた。「空白」だった被災状況が判明するにつれて、市編さんの記録集などにもない被爆前の街並みを伝える貴重な写真が、遺族宅で保存されていることも分かった。
元住民たちは、城下町として誕生した街の由来も込めて「矢倉会」(益本嘉六会長)の名称で、八月二日にドーム東の西向寺で慰霊法要を営み、今後の取り組みについて話し合う。
伊勢さんは「あの日以来、つながりが途絶えた人たちが集まり、それぞれが知る関係者を通じてさらに輪を広げたい。目にみえるかたちで生まれ育った街を復元、追悼していきたい」と話している。 「矢倉会」連絡先は伊勢さん宅TEL082(247)5324。
(1997年7月23日朝刊掲載)
猿楽町は百万都市・広島の中心部、現在の中区大手町一丁目と紙屋町二丁目に当たる。死没した住民の多くは世帯主、またはその妻、学童疎開年齢に達していなかった子どもたち。親たちは、国が命じた建物疎開により、市役所東側の「雑魚場町」(爆心地約一・一キロ)での家屋撤去作業に出て被爆し、遺骨が不明のままのケースが目立つ。
一家族のうち最も犠牲者が多かったのは七人で、朝の食卓を囲んでいた最中に爆死したとみられる。また、今も全容がはっきりしない原爆被災の状況を示すように、市の「原爆死没者名簿」の基となった調査と、遺族が確認した本人の被爆場所や名前、死亡年齢が違う例も多数あった。
遺族の大半は、学徒動員先などで被爆しながら助かったり、当時は市郊外の安佐南区などの疎開先から入市被爆した人たち。最高齢は百歳、最年少は父親が爆死した年末に生まれた五十一歳。
被災記録の掘り起こしは「子や孫に被爆の実態を伝えるためにも、われわれの手で街を復元し、犠牲者の追悼をしよう」と、現在もドームそばに住むたばこ店経営伊勢栄一さん(59)たちが呼び掛け、中国新聞社が今春から、生存遺族を確認し、その協力を得て記録や証言を集めた。「空白」だった被災状況が判明するにつれて、市編さんの記録集などにもない被爆前の街並みを伝える貴重な写真が、遺族宅で保存されていることも分かった。
元住民たちは、城下町として誕生した街の由来も込めて「矢倉会」(益本嘉六会長)の名称で、八月二日にドーム東の西向寺で慰霊法要を営み、今後の取り組みについて話し合う。
伊勢さんは「あの日以来、つながりが途絶えた人たちが集まり、それぞれが知る関係者を通じてさらに輪を広げたい。目にみえるかたちで生まれ育った街を復元、追悼していきたい」と話している。 「矢倉会」連絡先は伊勢さん宅TEL082(247)5324。
(1997年7月23日朝刊掲載)