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52年間の空白 祈り、埋める 旧猿楽町住民らが法要 原爆ドームわき

 原爆ドームを残して消えた街、「広島市猿楽(さるがく)町」ゆかりの人たち七十七人が二日、ドームそばの西向寺で、五十二年ぶりに合同慰霊法要を開いた。集いは「あの日」を心から悼み、生き抜いて再会をかなえた喜びにあふれた。

 二人の九十歳の女性を最高齢に、父が爆死した一九四五年末に生まれた胎内被爆者、祖父母がドーム東の自宅で爆死した孫…。東京や九州からもゆかりの人たちが駆け付けた。

 法要を呼び掛けたのは、街の復元調査に立ち上がった元住民でつくる「矢倉会」(益本嘉六会長)。町名が中区大手町一丁目に変わった今も暮らす伊勢栄一さん(60)が「皆さん、本当によく帰ってこられました。この街で亡くなった多くの犠牲者も、さぞかし喜んでおられると思います」とあいさつ。暮れなずむドームを見上げる本堂に、読経の声が流れた。

 ドーム敷地に生家があった田辺雅章さん(59)が、広島築城以来の歩みを原爆で絶たれた街の由来から名付けた「矢倉会」の設立経緯を紹介。「両親と弟を失い、皆さまと同じ過酷な体験からドームに背を向けて生きてきた。しかし半世紀を過ぎ、温かい息遣いがあふれた街を記録にとどめ、残りの生を再び力を合わせて生きよう」と呼び掛けた。

 この後、隣接するホテルで懇親会を開き、中国新聞社の取材を通じて作製した原爆投下前の復元戸別概略図や、携えた写真を手に、消えた街の「空白」の記録を埋め合った。

 原爆投下の朝、荷物疎開の途中に西区で被爆し、福岡市から参列した桧山マツエさん(76)は「こうして隣近所の人たちに会え、うれしさでいっぱいです」。二軒東先に住み、父や祖父らを失った田中博さん(63)=安佐南区=は「幼いころかわいがってもらった人や、一緒に遊んだ旧友が元気でいるのを見て言葉になりません」と、顔をほころばせた。

 元住民は、さらに被災記録を掘り起こし、「猿楽町」の記念碑を建て、映像や文集で追悼記録をつくることを申し合わせた。

(1997年8月3日朝刊掲載)

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