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「入市被爆にも健康手帳」知らず… 猿楽町復元機に52年目の申請 戦後 福岡に転居・石井さん 「記録にとどめたい」

 一九四五年八月六日まで原爆ドーム前で写真館を営んでいた女性が四日、広島市役所を訪れて、息子と被爆者健康手帳の交付申請をした。原爆投下の約一週間後に爆心の自宅跡に立ちながら、入市被爆者にも手帳が交付されることを知らないまま、生きてきた。「子どものためにも被爆の記録をきちんと残し、手帳を取得したい」。被爆五十二周年の夏の思いである。

 福岡県前原市に住む石井ヒサエさん(88)と、安佐南区在住の会社員で三男守さん(53)。証人となる、石井さんのいとこで福岡市西区の桧山マツエさん(76)と原爆被害対策部を訪ねた。

 石井さん親子は、平和記念公園となるドーム北側の「猿楽町七番地」、現在の中区大手町一丁目が本籍地。夫の勲さん(三十二年前死去)と写真館を営んでいた。四五年春、二男惣次さん(56)と守さんを連れて広島県高田郡吉田町に疎開し、夫はたまたま投下前夜を吉田町で過ごした。「主人はその日すぐトラックに乗って帰り、私が子どもらを連れて帰ったのは十四日か、十五日でした」

 通行人の「ここら辺りに写真館があったなぁ」という声が耳に残った。翌年、中区十日市町で写真館を再開。夫の死後は、「猿楽町二十―一番地」に住んでいた桧山さん夫妻が福岡にいたことから、二男らと移り住んだ。

 「主人は手帳を持っていましたが、もらえる人はすぐ帰った人だけだと思い、息子二人も手続きをしなかったんです」。惣次さんが右半身が不自由となり、子どもらの分もと今回、五十二年ぶりにあった猿楽町元住民の法要に参列するため広島を訪ねたのを機に、申請に踏み切った。

 西区で被爆した桧山さんは「石井の夫婦が私たちをも探して猿楽町に入り、その夜に桧山の疎開先だった安佐北区で無事を確かめ合い、泊めたのは間違いありません」と話していた。

(1997年8月5日朝刊掲載)

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