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ヒロシマ52周年 消えた街 今も胸に 猿楽町出身者それぞれの祈り 親が兄弟が…無念の死 「つかぬ心の整理」

 原爆ドームを残して消えた街、「広島市猿楽(さるがく)町」。親を、兄弟を、思い出さえも消し去られたゆかりの人たちは六日、それぞれの地でめい福を祈り、崩れぬ平和を願った。被爆から五十二年、いやされぬ悲しみが、生き抜いた者たちを貫く。

生家そばで

 広島市西区に住む細野(旧姓松本)澄子さん(68)は、平和祈念式会場を対岸に見るドーム前で「午前八時十五分」を迎えた。原爆死没者名簿には、先月二十二日に六十五歳で亡くなった妹道子さんも記載された。「今日まで生きてこれたのがうそのような気がします」

 ドームの東二百メートル足らずの「56―2番地」の自宅から中区舟入川口町の工場に動員され、被爆した。父房之助さん(46)は終戦の日帰らぬ人に。やはり動員先で大やけどを負った道子さんを看病し、学童疎開していた弟と妹を連れに向かった。十六歳の女学生が病死した母の代わりとなった。

 「妹はやけどを苦に独身を通し、入院したと思ったら三週間後には…。本当に戦争は私らの代でたくさん」。今、小・中学生三人の祖母でもある細野さんは「平和の鐘」が鳴り渡ると、こうべをたれて身じろぎしなかった。

遠く離れて

 テレビから流れる「平和の鐘」に、大阪府枚方市に住む野(旧姓国松)登美子さん(58)は、トマトを供えた仏前に手を合わせた。

 「気持ちの整理がいまだにつかなくて…」と、戦後一度しか郷里には戻っていない。ギフト店を一緒に営む夫の利夫さん(64)が「毎年この日が来ると、何事も一人でするしかなかったころが、よみがえるようです」と補った。

 「46-1番地」の自宅で父力蔵さん(46)は爆死。母寿子さん(35)は広島県高田郡の疎開先に見分けがつかないほどの全身やけどで運ばれ、被爆十一日後に亡くなった。その母が、被爆直後に収容された広島文理科大で、トマトを隣に寝ていた男児にも渡したのを知り、夏には欠かさず冷えたトマトを供える。「どんな思いで味わったんでしょうか…」

一人自宅で

 徳山市に住む井上(旧姓島本)満子さん(67)は今年は自宅で一人、祈りをささげた。昨年、夫が病死し、自身も軽い脳梗塞(こうそく)で倒れ、通院が続く。

 「ようも生きてこれた。母のおかげです」。原爆投下前夜、一家はそれぞれの疎開先から不在だった「26番地」の伯母宅に集まり、徳三郎さん(41)と能子さん(40)の両親と妹二人、弟が爆死した。

 井上さんは「あの日」、久しぶりの家族水入らずに動員先を休むつもりだった。虫が知らせたのか、母がたしなめ、投下三十分前に工場に向かい、家族のうちただ一人助かった。「この年になり、ようやくみんなの死はあきらめがついた。でも、戦争への憎しみは変わりません」。語気を強め何度も汗をふいた。

(1997年8月7日朝刊掲載)

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