旧細工町にいた257人確認 原爆 上空580メートルでさく裂 出勤中や動員含め ゆかりの死者304人
00年2月21日
一九四五年八月六日に投下された広島原爆で、爆心直下となった広島市細工町(現・中区大手町一丁目)の住民や、町内にあった広島郵便局の職員・動員学徒の被爆死について、中国新聞社は二十日、遺族らの協力を得てまとめた。原爆が上空約五百八十メートルでさく裂した瞬間、直下にいたとみられる住民四十一人、職員・学徒の二百十六人の計二百五十七人の死亡を確認。うち九九%の二百五十五人は被爆当日に爆死し、残り二人も三日後に亡くなっていた。建物疎開作業の動員先や移転先、出勤途中などに被爆した人を含めると、計三百四人(うち住民七十二人)が翌九月末までに亡くなり、八六%に当たる二百六十一人は遺骨不明のままである。
細工町は、原爆ドームの隣に位置し、現在は百十二万都市の中心街の一角。原爆で根こそぎ破壊されたため、遺族同士のつながりも断たれた。三年前に北隣の猿楽町元住民と取り組んだ復元調査の際に寄せられた情報や、細工町で食料品店を営み、今は東区に住む田中俊明さん(82)が知る遺族の消息を手掛かりに、関係世帯を一軒ずつ捜した。
八月六日の居住が確認できたのは十九世帯、六十四人で、うち四十一人が細工町で爆死したほか、十人が外出先などで被爆して死亡した。町内で四五年五月から始まった建物強制疎開や自主疎開による移転世帯も合わせると三十七世帯あり、所用で戻っていた人や移転先などで被爆した人を含めると細工町住民の犠牲者は計七十二人になる。うち四十五人の遺骨は不明。
このほかに、爆心ゼロメートルの島病院(現・島外科)の入院患者らが原爆投下の瞬間、細工町にいた。
広島郵便局については、南区比治山町の多聞院に建つ慰霊碑に刻まれる二百八十八人(職員二百二十二人、学徒六十四人、引率教師二人)の名前を基に、元同僚や関係機関が保存する資料から、遺族を捜した。
被爆死の状況が分かったのは、碑に名前がある職員百七十三人、動員されていた祇園高女(現・祇園高)四年生四十一人、本川国民学校(現・本川小)高等科二年生九人に加え、新たに死没が判明した祇園高女一人、局舎内の育児室にいた職員の子ども八人の計二百三十二人。一方、碑で死没者とされている学徒三人の健在が分かった。
局舎にいたとみられるのは二百十六人で、自宅にたどり着いて三日後に死亡した一人を除き、全員が爆死した。出勤途中や別の勤務場所などで被爆し、亡くなったのは十六人だった。遺骨不明は計二百十六人。
爆心直下のすさまじさを示すように、遺族が確認した死没者の名前や被爆場所などが、広島市の「原爆死没者名簿」の基となる調査や、広島郵便局関係の資料と違ったり、記載されていないなど、原爆被災の全容は未解明の部分が多い。
(2000年2月21日朝刊掲載)
細工町は、原爆ドームの隣に位置し、現在は百十二万都市の中心街の一角。原爆で根こそぎ破壊されたため、遺族同士のつながりも断たれた。三年前に北隣の猿楽町元住民と取り組んだ復元調査の際に寄せられた情報や、細工町で食料品店を営み、今は東区に住む田中俊明さん(82)が知る遺族の消息を手掛かりに、関係世帯を一軒ずつ捜した。
八月六日の居住が確認できたのは十九世帯、六十四人で、うち四十一人が細工町で爆死したほか、十人が外出先などで被爆して死亡した。町内で四五年五月から始まった建物強制疎開や自主疎開による移転世帯も合わせると三十七世帯あり、所用で戻っていた人や移転先などで被爆した人を含めると細工町住民の犠牲者は計七十二人になる。うち四十五人の遺骨は不明。
このほかに、爆心ゼロメートルの島病院(現・島外科)の入院患者らが原爆投下の瞬間、細工町にいた。
広島郵便局については、南区比治山町の多聞院に建つ慰霊碑に刻まれる二百八十八人(職員二百二十二人、学徒六十四人、引率教師二人)の名前を基に、元同僚や関係機関が保存する資料から、遺族を捜した。
被爆死の状況が分かったのは、碑に名前がある職員百七十三人、動員されていた祇園高女(現・祇園高)四年生四十一人、本川国民学校(現・本川小)高等科二年生九人に加え、新たに死没が判明した祇園高女一人、局舎内の育児室にいた職員の子ども八人の計二百三十二人。一方、碑で死没者とされている学徒三人の健在が分かった。
局舎にいたとみられるのは二百十六人で、自宅にたどり着いて三日後に死亡した一人を除き、全員が爆死した。出勤途中や別の勤務場所などで被爆し、亡くなったのは十六人だった。遺骨不明は計二百十六人。
爆心直下のすさまじさを示すように、遺族が確認した死没者の名前や被爆場所などが、広島市の「原爆死没者名簿」の基となる調査や、広島郵便局関係の資料と違ったり、記載されていないなど、原爆被災の全容は未解明の部分が多い。
(2000年2月21日朝刊掲載)