[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2025年6月 国内外から8・6へ
25年6月26日
孤児 命つなぎ子や孫と
2025年6月。東京都内に住む小島純也さん(85)は近くに住む長男浩司さん(46)と、8月の広島訪問を心待ちにしている。日曜だった22日も親子で過ごし、広島東洋カープのユニホームに袖を通した。「カープがあったから命を絶たなかった。今日負けても、あしたは勝つかもと思って」。原爆で孤児となった小島さんの心の支えは、家族の絆も紡いだ。
生後10カ月の時に母が病死。5歳で被爆して父や祖父母も失った。引き取った叔父に暴力を振るわれ、叔母からも冷たい言葉を浴びた。小学6年の時、「お母さんや、お父さんを、もう一かいだけでもよいから、みたい」と書くと手記集「原爆の子」(1951年刊)に載った(2月21日付本連載)。
22歳で逃げるように上京。はんこ職人として働きつつ、プロ入りに憧れた元野球少年は「カープに近づきたい一心」で結婚までの約6年間、関東の私設応援団に入った。団長も務め、75年の初優勝時はビールかけに参加。79年生まれの長男には当時の主力選手、山本浩二さんにちなんで名付けた。
家族でファン
毎日、家族4人で食卓を囲んで試合内容を話すうちに、2人の子は大のカープファンに。そんな浩司さんから今年8月6日に元安川である「とうろう流し」に誘われた。
「父が命をつないでくれて自分も今がある。世界で平和が危ぶまれる中、節目の年に広島で先祖を供養したい」と浩司さん。幼い頃、家でアニメ「はだしのゲン」を見て号泣する父の姿を覚えている。「被爆で激変した人生を受け入れられないけど、受け入れないといけない。ずっとそういう気持ちなんだと思います」。「原爆の子」の作文を読むと感じる。
「孤児は孤児。いくら頑張っても人生の基盤が違う」と小島さんは考える。夢だったマイホームも持てなかった。「苦しくても真面目にこつこつと」を信念に、昨年まで現役ではんこを彫った。毎夕、病気で先立った妻と被爆死した家族のため仏壇に手を合わせる。
墓参りやカープ観戦で年1回は広島を訪れるが、原爆の日は初めて。長女と孫も同行する。父を火葬した河原にも連れて行きたいと願う。
ブラジルから
遠くブラジルからは、盆子原国彦さん(85)が6年ぶりの広島行きを決めた。市が海外に住む被爆者(在外被爆者)を招く事業で、平和記念式典に参列する。「原爆で亡くなった家族と、ブラジルに移住し、苦労した先輩の被爆者たちを思いながら出席します」
5歳の時に舟入川口町(現中区)で被爆し、母と姉を失った。戦後土木や測量を学び、20歳でブラジルへ。日本政府が在外被爆者を援護の枠外とする中、84年に現地にできた原爆被爆者協会が要望活動を始めた。会は多い時に270人が集い、盆子原さんも加わった。
韓国や米国に多い在外被爆者は日本の支援者の協力も受けて訴訟を重ね、健康管理手当の受給などを勝ち取る。15年の最高裁判決で、最後に残る大きな格差だった医療費の全額支給も実現。支払った後に日本から還付される仕組みが基本だが、広島県の働きかけもあり、ブラジルでは19年から指定病院で窓口負担なく医療を受けられる日本同様の運用になった。
盆子原さんは「『被爆者はどこにいても被爆者』と当然の考え方を言い続け、ようやくここまできた。ただ、時間がかかり過ぎたとも思います」と言う。ブラジルで健在の被爆者は50人余り。地球の裏側で顧みられなかった多くの先人を広島で悼む。(山下美波、下高充生)
(2025年6月26日朝刊掲載)