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爆心地の中島本町 255人の被爆死確認 平和記念公園の北部分 本社調査 224人はその日に死亡

 一九四五年八月六日の原爆投下で壊滅した広島市の中心街「中島本町」について、中国新聞社は十二日、今なお不明の被災状況を遺族らの協力を得てまとめた。街は、施行五十周年の「広島平和記念都市建設法」を基に整備された平和記念公園の中核をなす。今回は、原爆投下の目標にされた相生橋から、公園内を東西に貫く旧中島本通りまでの一帯を追跡。四五年末までに住民や勤務者ら二百五十五人の被爆死状況が判明し、うち八八%の二百二十四人が、その日に爆死していた。

 追悼法要を営む旧住民らが五一年につくった「中島平和観音会」の名簿を基に、広島大原爆放射能医学研究所が六九年に作成した「爆心地復元市街図」などの公刊資料や、未公開記録とも照合して関係者を捜し、死没者一人ひとりの被爆状況を追った。

 「八月六日」の居住が確認できたのは七十五世帯、二百六十人で、うち八〇%に当たる二百七人が四五年内に亡くなっていた。疎開先から国の命令で動員作業に向かったり、町内に店を持っていた十七人も被爆死していた。さらに「中島本町十八番地」にあったのが分かった広島西消防署中島出張所や、民間事業所に出勤して死亡したのは二十三人。町内の親族を訪ねての犠牲者は八人を確認した。

 遺族関係者のうち今回、約百二十人の協力を得た。多くは、学童疎開先にいたり、爆心二キロ内外の動員先で被爆した元児童・生徒や、戦地から戻った夫が再婚した被爆体験を持つ女性とその子ども。最高齢は、遺児二人を育てた九十四歳の女性だった。

 親きょうだいを亡くして「被爆後」を生き抜いた元児童・生徒らは「忘れようと努め、詳しい話は子どもにもしていません」と、述べる人たちが少なくない。家族七人を失い、被爆者健康手帳を得ていない女性は「私が自宅跡に捜しに行ったことを証明する人がいない」と、人影も消えた爆心地のありさまを話した。

 広島築城期に誕生した中島本町は、明治期から被爆前まで商業・文化の中心地としてにぎわった。同時に相生橋北側一帯には第五師団司令部(後に中国軍管区司令部)などの軍事施設が広がっていた。

 現在は平和記念公園となった町内跡は、旧中島本通り北側に約七万柱の遺骨を納める原爆供養塔、南側に原爆慰霊碑が立つ。旧天神町との隣接地には被爆者援護法に基づき「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」の建設が秋から始まり、二〇〇二年に開館する。

(1999年7月13日朝刊掲載)

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