広島被爆54周年 祈り語り継ぐ原点の夏 「原爆で両親失う」 眠る街「中島本町」出身の藤井さん 後輩に悲惨な体験切々
99年8月7日
広島市中区の平和記念公園で六日、その下に眠る「中島本町」の元児童が五十四年の時を超え、母校の六年生十三人に学童疎開中に両親を奪われた原爆体験を語った。神奈川県相模原市の藤井正伸さん(63)。「伝わらないからとあきらめるのでなく、何とか伝えていきたい」。二十一世紀を築く世代にヒロシマの願いを託した。
藤井さんは、旧中島本町住民の遺族による追悼法要に参列するため帰郷し、この日は被爆建造物の市レストハウスであった中島地区の交流会に足を運んだ。三年前の定年を機に母校・中島小を訪ね、「私なりの平和への訴え」と原爆ドームの写真を張った小石五十個を贈ったことで、児童たちが「一度お礼を言いたい」と手紙を寄越していた。
「お父さんやお母さんと別れた疎開先に、おじさんは最後まで残ったんだ…」。学童疎開した三年生の時の話になると言葉が詰まった。一九四五年四月からいた広島県双三郡三良坂町の寺で父養助さん=当時(53)と母ヒサヨさん=同(40)の死去を引率教諭から知らされた。友達が次々と引き取られる中、広島に戻れたのは年末。「姉さん三人との生活になった」事実が思わず目元を潤ませた。
育英資金で高校に進み、建設会社で働きながら三十歳で大学を出た。母が疎開先への手紙で記していた短歌を詠むようになり、七年前には自作集「原爆半世紀の軌跡」を出した。今、地元相模原で原爆関連のスライド上映や集めた軍票の展示活動などを通じて、原爆孤児としての半生を繕わずに語り続けている。
「原爆や戦争のことをよく学んで、何をしたらいいか考えて」と、最後に子どもたちに呼びかけた藤井さん。「原爆は怖いけど、友達と一緒の疎開は楽しそう」。あっけらかんとした子どもたちの感想に苦笑いしながら、「話し伝えるのが大人の務め。放っていては、原爆の事実そのものが消えてしまう」。悲観からは何も生まれないといった調子で話した。
(1999年8月7日朝刊掲載)
藤井さんは、旧中島本町住民の遺族による追悼法要に参列するため帰郷し、この日は被爆建造物の市レストハウスであった中島地区の交流会に足を運んだ。三年前の定年を機に母校・中島小を訪ね、「私なりの平和への訴え」と原爆ドームの写真を張った小石五十個を贈ったことで、児童たちが「一度お礼を言いたい」と手紙を寄越していた。
「お父さんやお母さんと別れた疎開先に、おじさんは最後まで残ったんだ…」。学童疎開した三年生の時の話になると言葉が詰まった。一九四五年四月からいた広島県双三郡三良坂町の寺で父養助さん=当時(53)と母ヒサヨさん=同(40)の死去を引率教諭から知らされた。友達が次々と引き取られる中、広島に戻れたのは年末。「姉さん三人との生活になった」事実が思わず目元を潤ませた。
育英資金で高校に進み、建設会社で働きながら三十歳で大学を出た。母が疎開先への手紙で記していた短歌を詠むようになり、七年前には自作集「原爆半世紀の軌跡」を出した。今、地元相模原で原爆関連のスライド上映や集めた軍票の展示活動などを通じて、原爆孤児としての半生を繕わずに語り続けている。
「原爆や戦争のことをよく学んで、何をしたらいいか考えて」と、最後に子どもたちに呼びかけた藤井さん。「原爆は怖いけど、友達と一緒の疎開は楽しそう」。あっけらかんとした子どもたちの感想に苦笑いしながら、「話し伝えるのが大人の務め。放っていては、原爆の事実そのものが消えてしまう」。悲観からは何も生まれないといった調子で話した。
(1999年8月7日朝刊掲載)