平和祈念館の予定地 旧天神町北組 消えた街 163人被爆死 元住民 「記録を後世へ」 本社調査で確認
98年10月15日
原爆投下で一瞬にして街が消え、国が広島市中区の平和記念公園内に計画している「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」の建設場所となる旧天神町北組について、中国新聞社は十四日、遺族らの協力を得て被災状況をまとめた。被爆した年の一九四五(昭和二十)年末までに百六十三人の死亡が確認され、うち半数近い七十七人の遺骨は今も行方が分からない。遺族たちは、存在のあかしさえ原爆でかき消された死没者の記録をとどめるよう、国や広島市に求めている。
爆心から五百メートルの範囲に納まる旧天神町北組に「八月六日」まで居住し、被爆死したのは五十七世帯、百四十六人。住み込み勤務や親族訪問、仕事などで訪れて亡くなったのは十七人。一家族のうち最も犠牲者が多かったのは七人で、二家族が全滅していた。
あの日、突然に肉親を奪われた遺族たちの多くは、自らも学徒動員先や徴用先で被爆した。遺骨の確認もできず、「自宅跡を目安に、たぶんこの辺りで亡くなったのだろうと言い聞かせた」と語る。原爆で両親を失い、自分一人になった心の傷が重く、今年まで被爆者健康手帳の申請をためらった男性もいる。被爆者遺族の最高齢者は、投下直後に夫を捜して入市した九十一歳になる安佐南区の女性だった。
旧天神町北組は、四九年に成立した国の広島平和記念都市建設法により平和記念公園が建設され、住民たちは住み慣れた地に戻ることはできなかった。天神町十四番地で生まれ、被爆後は神戸市に移り住んだ本間公恵さん(75)は「親代わりだった祖母を失い、古里も消えた。死者を忘れず平和の尊さを伝えるために、これからも被災状況をきちんと記録にとどめ、伝えていってほしい」と話す。
国の平和祈念館は、「旧北組」の慰霊碑が建つ一帯に、来年度から地下二階建て延べ三千平方メートルを建設し、二〇〇二年に開館する予定。厚生省は九月に出た諮問機関の報告書を基に、追悼のあり方について「手形や人形で象徴させて死没者の数を示す」とし、国として死者の被災記録を収め、保存展示していくことには消極的な姿勢にある。
広島大原爆放射能医学研究所の宇吹暁助教授は「死没者を追悼する以上、一人ひとりの被災状況を具体的に記録し、人間としての悼みが伝わるようにするべきだ。死者の総数さえ不明な被爆の実態解明のため、国は広島市や被爆者団体など調査を整理集約し、歴史として伝え残す務めがある」と話している。
(1998年10月15日朝刊掲載)
爆心から五百メートルの範囲に納まる旧天神町北組に「八月六日」まで居住し、被爆死したのは五十七世帯、百四十六人。住み込み勤務や親族訪問、仕事などで訪れて亡くなったのは十七人。一家族のうち最も犠牲者が多かったのは七人で、二家族が全滅していた。
あの日、突然に肉親を奪われた遺族たちの多くは、自らも学徒動員先や徴用先で被爆した。遺骨の確認もできず、「自宅跡を目安に、たぶんこの辺りで亡くなったのだろうと言い聞かせた」と語る。原爆で両親を失い、自分一人になった心の傷が重く、今年まで被爆者健康手帳の申請をためらった男性もいる。被爆者遺族の最高齢者は、投下直後に夫を捜して入市した九十一歳になる安佐南区の女性だった。
旧天神町北組は、四九年に成立した国の広島平和記念都市建設法により平和記念公園が建設され、住民たちは住み慣れた地に戻ることはできなかった。天神町十四番地で生まれ、被爆後は神戸市に移り住んだ本間公恵さん(75)は「親代わりだった祖母を失い、古里も消えた。死者を忘れず平和の尊さを伝えるために、これからも被災状況をきちんと記録にとどめ、伝えていってほしい」と話す。
国の平和祈念館は、「旧北組」の慰霊碑が建つ一帯に、来年度から地下二階建て延べ三千平方メートルを建設し、二〇〇二年に開館する予定。厚生省は九月に出た諮問機関の報告書を基に、追悼のあり方について「手形や人形で象徴させて死没者の数を示す」とし、国として死者の被災記録を収め、保存展示していくことには消極的な姿勢にある。
広島大原爆放射能医学研究所の宇吹暁助教授は「死没者を追悼する以上、一人ひとりの被災状況を具体的に記録し、人間としての悼みが伝わるようにするべきだ。死者の総数さえ不明な被爆の実態解明のため、国は広島市や被爆者団体など調査を整理集約し、歴史として伝え残す務めがある」と話している。
(1998年10月15日朝刊掲載)