旧材木町 被爆死388人 子ども・高齢者目立つ 1945年内確認
00年4月28日
原爆で壊滅した広島市材木町(現・中区中島町)の住民の被爆死状況を、中国新聞社は二十七日、遺族たちの協力を得てまとめた。原爆が投下された一九四五年八月六日の居住が確認できたのは百五十四世帯、四百七十四人で、その日に七〇%の三百三十人が爆死し、さらに十九人が年末までに亡くなっていた。疎開先から動員作業に出た人や、転居先で被爆した人を含めると四五年内の死者は三百八十八人を数えた。
材木町は、現在の平和記念公園の原爆慰霊碑から平和大通りまでに当たり、六つの寺の周りに商家や民家が軒を連ねていた。
調査は、六〇年代後半から七〇年代半ばまでの爆心地・中島地区の復元運動に携わった遺族の一人、坂田寿章さん(八九年死去)が残していた資料や、広島市などの記録を基に、昨年夏から遺族を捜し、全国に住む約三百人の協力を得た。
四五年内の死没者三百八十八人を年代別(うち二人は不明)にみると、十歳未満が七十七人と最も多く、次が十代の六十一人。三人に一人が幼児や、小学校(当時は国民学校)三年以上を対象にした学童疎開の年齢に達していなかった児童、学徒動員・徴用にあった少年少女たち。五十代以上の八十二人と合わせると、死没者の五七%、二人に一人が子どもや当時の高齢者世代だった。
居住を確認した百五十四世帯のうち、一家族で最も多い死者は八人。一人暮らしを除き、疎開先や戦地から戻った家族もいない一家全滅は二十世帯を数えた。
旧住民遺族のうち最高齢者は、夫を失った百一歳の女性。多くは、原爆投下時に市中心部の外へ勤務や動員、食糧調達などで出ていた。被爆後にゆかりの地を離れ、わずかに戻った人たちも平和記念公園の建設により、五〇年代初めまでには移転を強いられた。旧住民たちによって五七年、公園広場の東側に「材木町跡」と刻んだ石碑が建てられている。
(2000年4月28日朝刊掲載)
材木町は、現在の平和記念公園の原爆慰霊碑から平和大通りまでに当たり、六つの寺の周りに商家や民家が軒を連ねていた。
調査は、六〇年代後半から七〇年代半ばまでの爆心地・中島地区の復元運動に携わった遺族の一人、坂田寿章さん(八九年死去)が残していた資料や、広島市などの記録を基に、昨年夏から遺族を捜し、全国に住む約三百人の協力を得た。
四五年内の死没者三百八十八人を年代別(うち二人は不明)にみると、十歳未満が七十七人と最も多く、次が十代の六十一人。三人に一人が幼児や、小学校(当時は国民学校)三年以上を対象にした学童疎開の年齢に達していなかった児童、学徒動員・徴用にあった少年少女たち。五十代以上の八十二人と合わせると、死没者の五七%、二人に一人が子どもや当時の高齢者世代だった。
居住を確認した百五十四世帯のうち、一家族で最も多い死者は八人。一人暮らしを除き、疎開先や戦地から戻った家族もいない一家全滅は二十世帯を数えた。
旧住民遺族のうち最高齢者は、夫を失った百一歳の女性。多くは、原爆投下時に市中心部の外へ勤務や動員、食糧調達などで出ていた。被爆後にゆかりの地を離れ、わずかに戻った人たちも平和記念公園の建設により、五〇年代初めまでには移転を強いられた。旧住民たちによって五七年、公園広場の東側に「材木町跡」と刻んだ石碑が建てられている。
(2000年4月28日朝刊掲載)