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被爆55周年 「風化させぬ」原点見つめ誓い新た 家族の面影爆心にたどる 材木町跡石碑に兄の級友と祈る 佐伯区の谷口さん

 「お兄さん、皆さんが会いに来てくれましたよ」。現在は平和記念公園(広島市中区中島町)になっている旧材木町で、家族六人を失った佐伯区八幡一丁目の主婦谷口久子さん(66)が、兄良平さん=当時(18)=の県立広島工業学校(現県立広島工業高)時代の級友たちと、公園内にある材木町跡の石碑を初めて訪れた。

 集まったのは、西区観音本町二丁目の五反田義之さん(75)ら六人。一九四三年十二月、同校電気科を卒業するまでの三年間、良平さんと机を並べた。

 卒業後、就職や軍隊に入るなどで散り散りに。良平さんは被爆前日の五日、呉海軍工廠(しょう)から帰宅していて被爆死した。級友がその死を知ったのは今年四月、中国新聞に掲載された「遺影は語る」で。五反田さんが久子さんに連絡し、集いが実現した。

 「五十五年たっても、こうして集まってくれる。兄はいい友人に恵まれました」。久子さんは夫の敬誠さん(71)、五反田さんたちと公園東側にある旧材木町の石碑へ。高さ約七十センチの碑に菊の花束と線香を供え、全員で手を合わせた。

 「良平はクラスで成績が一番だった」「責任感の強い、いいやつだった」。思い出をたどる五反田さん。久子さんは「皆さんと兄の姿が重なって見えます」と目にハンカチを当てた。

 爆心近くの材木町は原爆で壊滅。久子さんは両親と祖父、二人の兄、姉の計六人を亡くした。久子さんも爆心から一・一キロの中島小(中区加古町)で、倒壊した講堂の下敷きになったが助かった。戦後は親類に育てられたが、旧材木町の人たちとのつながりはなく、石碑も知らなかった。

 五反田さんらは今後、毎年八月六日には石碑を訪れ、良平さんらのめい福を祈ろうと思っている。

(2000年8月7日朝刊掲載)

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