[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2025年6月 家族の写真 亡き妻に声かける日々
25年6月27日
2025年6月。広島市西区の坂口博美さん(90)は、玄関先に飾った1枚の写真に声をかけるのが日課だ。「買い物に行ってくるよ。すぐ帰って来るからね」。戦後を共に生き抜き、昨年11月に91歳で亡くなった妻久代さんが笑顔を向ける。思い出のわが家に今は1人で暮らす。
「帰ってきたら誰かがいて、ご飯を食べる。家族というものに憧れがありました」。自身は両親と9人きょうだいの大家族だったが、1945年8月6日を境に日常は一変した。
黒い雨浴びる
当時坂口さんは神崎国民学校(現中区の神崎小)の5年生。同級生たちと広島県本地村(現北広島町)へ集団疎開していた。あの日、畑に野菜を取りに行き、「黒い雨」を浴びた。爆心地から30キロほど離れていた。
爆心直下の細工町(現中区)の自宅は壊滅。両親ときょうだい4人の死は1カ月後に叔父から聞かされた。「目の前からこつぜんと消えてしまって」。復員した兄たちとの生活が始まった。
久代さんもまた、母、兄、姉、弟たち家族7人を原爆で奪われた。自身は三篠国民学校(現西区の三篠小)の6年生で校庭で被爆。全身にやけどを負い、しばらく意識もうろうの状態が続いた。体を動かせず、隣で治療を受けていた母の死も見届けられなかった。
やけどの影響で思うように学校に通えず、1年遅れで舟入高に進み、「同級生」として坂口さんと出会う。在学中に2人とも被爆体験を手記集「原爆の子」(51年刊)につづった。それほど親しくならなかったが、卒業して8年後、家族の墓参りに訪れた寺で偶然再会を果たす。境遇も似ており、「気持ちがほぐれていったのか」と坂口さん。63年に結婚し、2人の息子を育てた。
坂口さんは卒業後、求人で見つけた原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)に勤めていた。実験動物の飼育を担当し、日曜や祝日も必死に働いた。久代さんは裁縫で家計を助けた。原爆による心身の傷から人前に出たがらず、交流を避けていた。
「おうたものにしか分からん、が口癖でした」。坂口さん自身は労働組合活動の一環で核実験に抗議して座り込み、求められれば証言もした。ただ葛藤も。「私はあの日の光景を見ていない。家族を失ったが、被爆者ではないってね」。それでも「こんなことはあったらいけん」との思いから、久代さんが見聞きした惨禍も伝えてきた。
死別後に手帳
共に歩んで60年。久代さんは5年ほど前から体調を崩しがちで介護が必要となった。坂口さんは家で寄り添い続け、見送った。その1週間後、自身の被爆者健康手帳が届く。黒い雨被害を救済する新しい被爆者認定基準が導入され、市の巡回相談を機に申請していたのが認められたのだ。
「手帳をもらってもやっぱり私には被爆者という実感はないんですよ。でも妻とは一緒になれたでしょうか」
「草のように生きたい」。坂口さんは「原爆の子」にそう記し、たくましく、自立して生きていこうと誓った。今は感謝の思いも募る。兄が帰ってきてくれて1人にならなかったこと、国民学校の友人が今も連絡をくれること、そして久代さんと出会えたこと。
この夏、久代さんの名は原爆死没者名簿に記され、8月6日に平和記念公園(中区)の原爆慰霊碑に納められる。「まだまだおかげさまで長生きさせてもらっとるよ」。写真を見つめながら目を細める坂口さんも、いつの日か慰霊碑に眠る。両親、きょうだい、妻と共に。(山本真帆)
(2025年6月27日朝刊掲載)
「帰ってきたら誰かがいて、ご飯を食べる。家族というものに憧れがありました」。自身は両親と9人きょうだいの大家族だったが、1945年8月6日を境に日常は一変した。
黒い雨浴びる
当時坂口さんは神崎国民学校(現中区の神崎小)の5年生。同級生たちと広島県本地村(現北広島町)へ集団疎開していた。あの日、畑に野菜を取りに行き、「黒い雨」を浴びた。爆心地から30キロほど離れていた。
爆心直下の細工町(現中区)の自宅は壊滅。両親ときょうだい4人の死は1カ月後に叔父から聞かされた。「目の前からこつぜんと消えてしまって」。復員した兄たちとの生活が始まった。
久代さんもまた、母、兄、姉、弟たち家族7人を原爆で奪われた。自身は三篠国民学校(現西区の三篠小)の6年生で校庭で被爆。全身にやけどを負い、しばらく意識もうろうの状態が続いた。体を動かせず、隣で治療を受けていた母の死も見届けられなかった。
やけどの影響で思うように学校に通えず、1年遅れで舟入高に進み、「同級生」として坂口さんと出会う。在学中に2人とも被爆体験を手記集「原爆の子」(51年刊)につづった。それほど親しくならなかったが、卒業して8年後、家族の墓参りに訪れた寺で偶然再会を果たす。境遇も似ており、「気持ちがほぐれていったのか」と坂口さん。63年に結婚し、2人の息子を育てた。
坂口さんは卒業後、求人で見つけた原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)に勤めていた。実験動物の飼育を担当し、日曜や祝日も必死に働いた。久代さんは裁縫で家計を助けた。原爆による心身の傷から人前に出たがらず、交流を避けていた。
「おうたものにしか分からん、が口癖でした」。坂口さん自身は労働組合活動の一環で核実験に抗議して座り込み、求められれば証言もした。ただ葛藤も。「私はあの日の光景を見ていない。家族を失ったが、被爆者ではないってね」。それでも「こんなことはあったらいけん」との思いから、久代さんが見聞きした惨禍も伝えてきた。
死別後に手帳
共に歩んで60年。久代さんは5年ほど前から体調を崩しがちで介護が必要となった。坂口さんは家で寄り添い続け、見送った。その1週間後、自身の被爆者健康手帳が届く。黒い雨被害を救済する新しい被爆者認定基準が導入され、市の巡回相談を機に申請していたのが認められたのだ。
「手帳をもらってもやっぱり私には被爆者という実感はないんですよ。でも妻とは一緒になれたでしょうか」
「草のように生きたい」。坂口さんは「原爆の子」にそう記し、たくましく、自立して生きていこうと誓った。今は感謝の思いも募る。兄が帰ってきてくれて1人にならなかったこと、国民学校の友人が今も連絡をくれること、そして久代さんと出会えたこと。
この夏、久代さんの名は原爆死没者名簿に記され、8月6日に平和記念公園(中区)の原爆慰霊碑に納められる。「まだまだおかげさまで長生きさせてもらっとるよ」。写真を見つめながら目を細める坂口さんも、いつの日か慰霊碑に眠る。両親、きょうだい、妻と共に。(山本真帆)
(2025年6月27日朝刊掲載)