[ヒロシマドキュメント 1946年] 6月 歌謡ひろしま 詞を募集
25年6月27日
1946年6月27日。中国新聞社が「歌謡ひろしま」の歌詞の募集を始め、朝刊で告知した。懸賞論文や盆踊大会と並ぶ「原子弾戦災一周年事業」の一つ。「何処でも誰にも歌へる」作品を目指し、作曲は古関裕而(ゆうじ)さん(09~89年)に依頼した。
約2週間で500点余りの応募があった。選ばれたのは、広島市段原中町(現南区)の歌人山本紀代子さん(61年死去)。広島一中(現国泰寺高)に通っていた長男の真澄さん=当時(13)=を原爆で亡くしていた。
5番まである歌詞は、「誰がつけたかあの日から 原子沙漠(さばく)のまちの名も いまは涙の語り草」から始まる。「安芸の小富士」や「比治山」などと広島の情景も詠んだ。「増えるいらか」「街を興せ」のフレーズからは復興に向けた歩みとその力強さを感じさせる。
8月9日付朝刊に歌詞と楽譜が載った。古関さんは戦時中に数多くの軍歌を作曲したが、戦後は永井隆博士の著書を基にした「長崎の鐘」など、鎮魂の歌も手がけることになる。本紙に寄せたメッセージでは「歌謡ひろしま」の歌詞を「誰にもうたへる立派なもの」と評し、「広島全市民の口になめらかに浮んで来る日を待つてゐる。その日こそ広島の平和復興の日であらう」と願った。
9月には市内で発表会があり、広島市役所合唱団などが歌った。ただ、その後はレコード化されることなく途絶え、長い間幻の歌になっていた。歌を覚えていた東京の女性がテープを広島の原爆資料館に送り、2020年に古関さんが専属作曲家だった日本コロムビアと所属歌手によってCD化が実現する。(山本真帆)
(2025年6月27日朝刊掲載)
約2週間で500点余りの応募があった。選ばれたのは、広島市段原中町(現南区)の歌人山本紀代子さん(61年死去)。広島一中(現国泰寺高)に通っていた長男の真澄さん=当時(13)=を原爆で亡くしていた。
5番まである歌詞は、「誰がつけたかあの日から 原子沙漠(さばく)のまちの名も いまは涙の語り草」から始まる。「安芸の小富士」や「比治山」などと広島の情景も詠んだ。「増えるいらか」「街を興せ」のフレーズからは復興に向けた歩みとその力強さを感じさせる。
8月9日付朝刊に歌詞と楽譜が載った。古関さんは戦時中に数多くの軍歌を作曲したが、戦後は永井隆博士の著書を基にした「長崎の鐘」など、鎮魂の歌も手がけることになる。本紙に寄せたメッセージでは「歌謡ひろしま」の歌詞を「誰にもうたへる立派なもの」と評し、「広島全市民の口になめらかに浮んで来る日を待つてゐる。その日こそ広島の平和復興の日であらう」と願った。
9月には市内で発表会があり、広島市役所合唱団などが歌った。ただ、その後はレコード化されることなく途絶え、長い間幻の歌になっていた。歌を覚えていた東京の女性がテープを広島の原爆資料館に送り、2020年に古関さんが専属作曲家だった日本コロムビアと所属歌手によってCD化が実現する。(山本真帆)
(2025年6月27日朝刊掲載)