旧元柳町 被爆死83人を確認 5事業所の勤務者も 1945年内
00年5月8日
一九四五年八月六日の原爆投下で壊滅し、現在は広島市中区の平和記念公園になっている元柳町(現・中島町)の住民や勤務者の被爆死状況を、中国新聞社は七日、遺族らの協力を得てまとめた。居住が確認できたのは二十八世帯、八十一人で、その日に爆死した五十三人をはじめ、七七%に当たる六十二人が八月末までに死去していた。また、疎開先などで被爆して亡くなった五人と、町内にあった五つの事業所に勤務していた十六人の被爆死を確認し、四五年内の死者は計八十三人を数えた。
元柳町は、平和記念公園を流れる本川左岸に面し、民家・事業所は約四十戸の小さな街区ながら繊維関係の問屋や旅館が集まり、デルタの中心街の一角を成していた。
調査は、数少ない元柳町の旧住民でつくる「柳生会」(上田良三代表)のメンバーが知る遺族の消息や、隣接していた中島本町や材木町など、これまでの住民被爆状況をまとめた際に寄せられた情報を基に、関係者を捜した。
居住死没者の六十二人については、自宅で被爆したとみられる四十三人は二十日までに全員が死去。外出先や動員先で被爆した十九人も二十八日までに亡くなっていた。一人世帯を除く六世帯で居住者全員が犠牲となった。一世帯につき最も多い死没者は五人で、二家族をみた。
町内の五事業所では、少なくとも職員十六人が亡くなり、九月死去の一人を除いて全員が爆死または最期が不明だった。
今年二月に元柳町跡の土中から建物の基礎部分が出てきた森永食糧工業(現・森永製菓)広島支店は、支店が保存していた資料によると二十二人(氏名不明二人を含む)が被爆死していた。今回、うち十二人の詳しい被爆状況が分かり、氏名不明の一人が判明した。
(2000年5月8日朝刊掲載)
元柳町は、平和記念公園を流れる本川左岸に面し、民家・事業所は約四十戸の小さな街区ながら繊維関係の問屋や旅館が集まり、デルタの中心街の一角を成していた。
調査は、数少ない元柳町の旧住民でつくる「柳生会」(上田良三代表)のメンバーが知る遺族の消息や、隣接していた中島本町や材木町など、これまでの住民被爆状況をまとめた際に寄せられた情報を基に、関係者を捜した。
居住死没者の六十二人については、自宅で被爆したとみられる四十三人は二十日までに全員が死去。外出先や動員先で被爆した十九人も二十八日までに亡くなっていた。一人世帯を除く六世帯で居住者全員が犠牲となった。一世帯につき最も多い死没者は五人で、二家族をみた。
町内の五事業所では、少なくとも職員十六人が亡くなり、九月死去の一人を除いて全員が爆死または最期が不明だった。
今年二月に元柳町跡の土中から建物の基礎部分が出てきた森永食糧工業(現・森永製菓)広島支店は、支店が保存していた資料によると二十二人(氏名不明二人を含む)が被爆死していた。今回、うち十二人の詳しい被爆状況が分かり、氏名不明の一人が判明した。
(2000年5月8日朝刊掲載)