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[ヒロシマドキュメント 1946年] 6月 市営市場を各地に開設

 1946年6月。広島市が市営市場を開設した。食糧難のため、法外な値段でも頼らざるを得なかった闇市への対策。己斐(現西区)をはじめ、市内各地に広げた。

 6月20日発行の市報で、「幾分でも市民の利益を考へ物価の変動を安定さす事に役立てる」と説明。5日に己斐、15日に宇品町(現南区)に設け、横川町(現西区)や大手町(現中区)でも建設中と伝えた。魚介や肉、果物、金物、化粧品といった生活用品を幅広く取り扱うこととした。

 己斐では広島電鉄宮島線の西広島駅南側の観光道路沿いに「鉄板葺平屋建」(71年刊の「広島原爆戦災誌」)で整備。被爆前に河原町(現中区)で酒店を営んでいた倉頭正一さん(53年に48歳で死去)は一家4人で店舗兼住宅に入居した。長男甫明(としあき)さん(85)=西区=によると、すぐには酒を入荷できず、乾物などを販売した。市場の様子を「何でもそろって、にぎやかでね」と懐かしむ。

 45年8月6日、甫明さんと両親は河原町の自宅で被爆。建物の下敷きになり、何とかはい出たが、姉と妹を亡くした。父は体調不良が続き、店は主に母道子さん(2000年に87歳で死去)が切り盛りした。甫明さんも学校が終わると配達を手伝った。近くには広島通産局の支局があり、「酒を届けると日本の情勢なんかを教えてくれて。子どもながらにそれが楽しみでした」。

 爆心地から2キロ以上離れた己斐地区は原爆による壊滅的な被害は免れた。戦後まもなく闇市が出現。戦災誌によると市営市場が開設されると、道路の両側に不法建築の店舗も立ち並び「商店街」が生まれた。甫明さんは「混沌(こんとん)の中でみんな生きるのに必死でした」と振り返る。

 己斐の市場は土地区画整理事業の一環で取り壊しになったが、64年に市営店舗が設けられた。(山本真帆)

(2025年6月30日朝刊掲載)

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