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[戦後80年 芸南賀茂] 防空壕 母の声頼りに 呉の空襲 家族は命をつないだ

多くの遺体 外は焼け野原

 80年前の7月1日の真夜中から、米軍機は無数の焼夷(しょうい)弾を呉市街地に落とした。和庄地区の防空壕(ごう)では逃れてきた多くの人々が重なり合い、亡くなった。煙が充満したその暗闇で生き残った7人家族がいる。「壁際の空気を吸いなさい」。子どもたちは切迫した母親の声を頼りに死線を越えた。(小林旦地)

 1945年、藤盛勇さん、ヨシノさんの夫妻(いずれも故人)は、呉市中心部の寺西町で子ども5人と暮らしていた。次女喜代子さん(94)と三女政子さん(90)、長男孝益さん(88)は1日夜、空襲警報が鳴るとすぐ、100メートルほど離れた防空壕を目指した。

 飛び込んだ真っ暗な壕で、いつの間にか3人は離れ離れになった。「藤盛が焼けよるど」と誰かの声。3人は家を失ったと悟った。

 政子さんは母を呼び続けた。気づくと、一緒に逃げた姉と弟が当時2歳だった四女綾子さん(82)を抱いたヨシノさんと同じ場所にいた。顔は見えないが、声で分かった。

 煙が充満する壕で、ヨシノさんは壁際の空気を吸うよう声を上げた。既に息絶えた人をよけて5人は壁に沿って横一列で耐えた。壕を出たのは翌日昼ごろ。亡くなった人々が並べられた先は焼け野原だった。政子さんは「あんなにひどいことはない」と言葉少なに振り返る。

 後から避難し、壕の入り口近くにいた父勇さんと長女冨士枝さんは、ほかの家族の生存を諦めていた。阿賀のヨシノさんの実家で「死なせてしまった」と報告した後は、疲れ果て眠っていたという。遅れて阿賀に着いた喜代子さんたちも憔悴(しょうすい)しきっていて、再会の瞬間はよく覚えてない。

 阿賀の借家でまた7人で暮らし、しばらくして市中心部に移って藤盛さん夫妻は商店を始めた。孝益さんは「おふくろは本当にえらい人やった。言うことは全部聞いた」としみじみ話す。現在は本通で政子さんと綾子さんがたばこ店を営む。

 長女の冨士枝さんは4年前に94歳で亡くなったが、4人は毎日のように店で顔を合わす。綾子さんは「こうして生きているのも母のおかげ。たまにけんかはするけど、仲良しなの」とほほ笑んだ。

(2025年7月1日朝刊掲載)

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