[戦後80年 芸南賀茂] 呉の空襲 記憶語り継ぐ 折り鶴やメッセージ 平和誓う
25年7月2日
体験基に紙芝居/生徒ら追悼集会も
呉市街地が焼け野原になった空襲から80年を迎えた1日、呉市では戦災を語り継ぐイベントや、中学生による追悼集会があった。体験を語れる人が少なくなる中、市民たちは記憶を継承し、平和な世界をつくることを誓った。(小林旦地、衣川圭、栾暁雨)
呉市の中峠房江さん(87)は、7歳の時の空襲体験を基にした紙芝居「ふうちゃんのそら」を、同市中通のカフェ「珈琲(コーヒー)と本ミュゲ」で上演した。
中峠さんが姉に手を引かれて逃れた防空壕(ごう)は煙が立ちこめ、避難してきた人々が押し合い、多くの人が亡くなった。翌日、壕の外に出ると街は焼け野原になっていた。「ここ……、どこ?」。中峠さんは80年前に自らが発した言葉を静かに読み上げた。
約30人の参加者の中には「こんなに子どもがつらい思いをするなんて」と涙を流す人もいた。福山市から来た近藤千春さん(33)は「防空壕で人が亡くなったとは知らなかった。平和のために自分にできることを考えたい」と決意を語った。
市史などによると、米軍機が1945年7月1日夜から2日未明に来襲し、焼夷弾を投下。1800人を上回る犠牲者が出たといわれ、和庄地区の防空壕では約550人が亡くなったとされる。
和庄中(和庄登町)の3年生約60人は、防空壕跡地そばの和庄公園(本町)で追悼集会を開いた。供養地蔵に平和のメッセージを書き込んだ千羽鶴をささげた。
同中は、地元の空襲体験者が開いてきた慰霊祭を2016年から引き継ぐ。高橋のなさん(14)は「私たちが伝える側になれるよう学んで考えたい。大事な人をちゃんと大事にして過ごしたい」と話した。
呉中央小(西中央)では、戦争で家族を失った呉市遺族連合会の2人が講話し、6年生約90人が耳を傾けた。フィリピンで叔父を亡くした音戸町の砂古和彦さん(84)と、祖父が沖縄で戦死した川尻町の浜岡慶次さん(73)が「原爆以外に広島県は空襲でも多くの犠牲者を出した」と説明した。江崎大輝さん(11)は「記憶を受け継ぎたい」とうなずいた。
(2025年7月2日朝刊掲載)