緑地帯 イシズマサシ モメント・イン・ピース 平和的瞬間⑤
25年7月4日
渡米し、旅を始めた当初は全くといっていいほど写真を撮っていなかった。カメラはタオルにくるみ、車のトランクの奥底に放り込んでいた。
2カ月がたった頃、私はグランドキャニオンの崖っぷちに立っていた。夜明け前とあって視界は闇に溶け込み、崖底からは突風が吹き上げてくる。ふと絶壁の向こう側で何かが動く気配がした。目を凝らすと、5メートルくらい先にも小さな崖の頂があり、そこで1人の西欧人旅行者が賽銭(さいせん)を拾っていた。どうやってあそこに渡ったのかと下を見ると、3メートルくらい下でつながっている。落ちれば一巻の終わりだ。夜明けが近づき、御来光を見ようと人々が集まってきた。そこで、この光景を見るや怒りや不快感をあらわにする人が続出した。彼はわれ関せずと手を休めない。少し離れた場所でこの様子を不安そうに見ている女性がいた。祈るように手を合わせている。連れ合いなのだろう。私もまた手を合わせた。そうこうするうちに太陽が見え始め、ちょうど彼のシルエットと重なった。足元のコインがきらきらと光を放ちはじめる。はっとした。その瞬間、人々の罵詈(ばり)雑言が私の耳から消えた。美しい。この光景だけでなく、人間の営みにも感動していた。私もいざとなったら、間違いなくあちら側に行くだろう。そう思った途端、私は遠くに駐車した自分の車に向かって走り出していた。このとき撮った一枚が、自分が写真家になった瞬間なのだと確信している。(作家=東京都)
(2025年7月4日朝刊掲載)
2カ月がたった頃、私はグランドキャニオンの崖っぷちに立っていた。夜明け前とあって視界は闇に溶け込み、崖底からは突風が吹き上げてくる。ふと絶壁の向こう側で何かが動く気配がした。目を凝らすと、5メートルくらい先にも小さな崖の頂があり、そこで1人の西欧人旅行者が賽銭(さいせん)を拾っていた。どうやってあそこに渡ったのかと下を見ると、3メートルくらい下でつながっている。落ちれば一巻の終わりだ。夜明けが近づき、御来光を見ようと人々が集まってきた。そこで、この光景を見るや怒りや不快感をあらわにする人が続出した。彼はわれ関せずと手を休めない。少し離れた場所でこの様子を不安そうに見ている女性がいた。祈るように手を合わせている。連れ合いなのだろう。私もまた手を合わせた。そうこうするうちに太陽が見え始め、ちょうど彼のシルエットと重なった。足元のコインがきらきらと光を放ちはじめる。はっとした。その瞬間、人々の罵詈(ばり)雑言が私の耳から消えた。美しい。この光景だけでなく、人間の営みにも感動していた。私もいざとなったら、間違いなくあちら側に行くだろう。そう思った途端、私は遠くに駐車した自分の車に向かって走り出していた。このとき撮った一枚が、自分が写真家になった瞬間なのだと確信している。(作家=東京都)
(2025年7月4日朝刊掲載)