[ヒロシマドキュメント 1946年] 7月4日 教え子への挽歌540首に
25年7月4日
1946年7月4日。後に広島大教授となる野地潤家さん(2016年に95歳で死去)が、原爆の犠牲になった少女への挽歌(ばんか)に一区切りをつけた。家庭教師をした森岡千代子さんを悼んで8カ月にわたり詠み続け、540首に達した。
「一瞬にいのちうばはれ遠ゆきしをとめごなればいよよ愛しも」
野地さんは広島高等師範学校(現広島大)に在学中の42年、東観音町(現西区)の自宅近くに住む当時国民学校6年の森岡さんの家庭教師となった。毎日のように教えに通い、翌年、森岡さんは新設の広島県立広島第二高等女学校(第二県女、現皆実高)に合格。進学後も交流は続いた。
野地さんは44年に広島県竹原町(現竹原市)の電気精錬工場へ学徒動員された後、陸軍の幹部候補生として仙台飛行学校に入った。敗戦後、広島に戻ったのは45年10月。森岡さんが観音本町(現西区)で被爆し、自宅の下敷きとなって亡くなったと人づてに聞いた。15歳だった。
「千代子惨死のしらせは大きい衝撃であった」(歌集「柿照葉(かきてりは)」)。11月に遺族を弔問すると、習っていた短歌を詠み始めた。看護師の夢、第二県女に合格してはしゃいでいた様子など、教え子の在りし日の姿を伝え、かなわぬ再会を願った。「よみがへる千代子よすこしはにかみてわがそばに来よ『更級日記』見む」
野地さんが300首を選んで「柿照葉」にまとめるのは75年。個人的な悲しみとして世に出していなかったが、前書きで「広島の地に学び、住み、教え、生きるひとりとして、ひとりの亡き教え子にささげる鎮魂のうた」とつづった。
「教育に携わる父にとって最初の大切な生徒だったはず」と長女の高津玲子さん(73)=安佐南区=は言う。国語教育が専門で、長く広島大に勤めた。「正月休み中も論文を書く学生を自宅に招いてご飯を食べさせるなど、面倒を見るのが好きな父でした」としのぶ。(山本真帆)
(2025年7月4日朝刊掲載)
「一瞬にいのちうばはれ遠ゆきしをとめごなればいよよ愛しも」
野地さんは広島高等師範学校(現広島大)に在学中の42年、東観音町(現西区)の自宅近くに住む当時国民学校6年の森岡さんの家庭教師となった。毎日のように教えに通い、翌年、森岡さんは新設の広島県立広島第二高等女学校(第二県女、現皆実高)に合格。進学後も交流は続いた。
野地さんは44年に広島県竹原町(現竹原市)の電気精錬工場へ学徒動員された後、陸軍の幹部候補生として仙台飛行学校に入った。敗戦後、広島に戻ったのは45年10月。森岡さんが観音本町(現西区)で被爆し、自宅の下敷きとなって亡くなったと人づてに聞いた。15歳だった。
「千代子惨死のしらせは大きい衝撃であった」(歌集「柿照葉(かきてりは)」)。11月に遺族を弔問すると、習っていた短歌を詠み始めた。看護師の夢、第二県女に合格してはしゃいでいた様子など、教え子の在りし日の姿を伝え、かなわぬ再会を願った。「よみがへる千代子よすこしはにかみてわがそばに来よ『更級日記』見む」
野地さんが300首を選んで「柿照葉」にまとめるのは75年。個人的な悲しみとして世に出していなかったが、前書きで「広島の地に学び、住み、教え、生きるひとりとして、ひとりの亡き教え子にささげる鎮魂のうた」とつづった。
「教育に携わる父にとって最初の大切な生徒だったはず」と長女の高津玲子さん(73)=安佐南区=は言う。国語教育が専門で、長く広島大に勤めた。「正月休み中も論文を書く学生を自宅に招いてご飯を食べさせるなど、面倒を見るのが好きな父でした」としのぶ。(山本真帆)
(2025年7月4日朝刊掲載)