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移動演劇「桜隊」 役者被爆 悲劇の最期

■記者 鈴中直美

 宮島桟橋に近い存光寺の境内にセミの鳴き声が響く。「64年前のあの日、ずいぶん多くの被爆者がこの寺に運ばれてきた。ひどいやけどで口々に『水、水』といってね…」

 井口健さん(78)=廿日市市宮島町=の脳裏には、当時、寺の向かいの自宅から見た光景が今も焼き付いている。1945年8月6日、自身も学徒動員先の広島市西区の工場で被爆した。大けがを負いながらもその日の夕刻、宮島に帰った。

 存光寺に収容された100人近い被爆者の中には、巡演先の広島にいた移動演劇「桜隊」の隊長丸山定夫もいた。「新劇の団十郎」と呼ばれるほどの役者だった。

 桜隊は当時、9人が爆心地から750メートル東(当時の堀川町)の宿舎兼事務所で被爆した。5人が即死し、残ったメンバーのうち、丸山は、市郊外の国民学校に搬送されていた。

 存光寺に疎開していた別の移動劇団の仲間のもとに、丸山の字で迎えにきてほしいと書かれた紙片が届いたのは11日。13日には丸山を寺に連れ帰ったという。丸山は高熱が続き、布団から抜け出しては寺の井戸で何度も水をかぶっていた。そして被爆から約10日後、寺で息を引き取った。

 「忘れちゃあいけんのよ」と井口さん。原爆の日が近づくとあの光景を思い出す。多くの命を受け入れた寺は静かに慰霊の日を迎える。

(2009年8月3日朝刊掲載)

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