[ヒロシマドキュメント 1946年] 7月6日 8月6日の写真初掲載
25年7月6日
1946年7月6日。中国新聞社が別会社で発行する「夕刊ひろしま」に45年8月6日の原爆投下後の広島の写真3枚が載り、初めて世に出た。
中国新聞社写真部員の松重美人(よしと)さん(2005年に92歳で死去)が広島市の御幸橋西詰め(現中区)で撮った2枚と、アルバイトだった山田精三さん(96)=広島県府中町=が爆心地の北東約6・5キロで収めたきのこ雲1枚。「世紀の記録写真」の見出しが付いた。
「松重さんに写真を見せたら掲載されることになった」と山田さん。さく裂の約2分後にシャッターを切り、現在では地上撮影の広島原爆のきのこ雲で最も早い記録とされる。ただ、「当時私はまだ下っ端でしたし、どれほど貴重かは分かりませんでした」という。
松重さんは生前、仲の良い同僚が「松ちゃん、あの写真使ってみよう」と言ったのが掲載のきっかけで、記事はその同僚が書いたと証言している(2001年8月11日付本紙)。「けふ六日は、広島市内の町内会で一周忌取り越しの追悼会 記念行事をするところが多く」と、被爆11カ月の状況を記した。
米国が7月1日に中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁でした核実験にも言及し、こう続く。「生々しい記憶を新に呼びおこさせてゐるとき、あの日を偲(しの)ぶ貴重な記録写真を掲げて、世界平和の人柱となった人々を弔ふとともに、新憲法に規定される戦争放棄 念を強くすることに資さう」。「新憲法」は3月に草案要綱、4月に草案が示されていた。
記事には「写真はアメリカの某誌に掲載され」ともあり、「米誌が全世界へ紹介」の見出しもついた。ただ、実際の掲載例は確認されていない。連合国軍総司令部(GHQ)が45年9月19日にプレスコードを発しており、検閲をかいくぐるためだったとみられる。
掲載後、松重さんへ「GHQから原爆報道のかげをひくものとして呼び出しがきた」(88年刊の「消えたペン」収録の手記)。整理部の記者と2人で出頭したが、「たいした小言もなく、御幸橋で撮影の写真を提供することで許された」(同)という。
松重さんと山田さんの写真は、52年4月に占領が明けた後、世界的な米写真誌「ライフ」の52年9月29日号に掲載された。(山下美波)
(2025年7月6日朝刊掲載)
中国新聞社写真部員の松重美人(よしと)さん(2005年に92歳で死去)が広島市の御幸橋西詰め(現中区)で撮った2枚と、アルバイトだった山田精三さん(96)=広島県府中町=が爆心地の北東約6・5キロで収めたきのこ雲1枚。「世紀の記録写真」の見出しが付いた。
「松重さんに写真を見せたら掲載されることになった」と山田さん。さく裂の約2分後にシャッターを切り、現在では地上撮影の広島原爆のきのこ雲で最も早い記録とされる。ただ、「当時私はまだ下っ端でしたし、どれほど貴重かは分かりませんでした」という。
松重さんは生前、仲の良い同僚が「松ちゃん、あの写真使ってみよう」と言ったのが掲載のきっかけで、記事はその同僚が書いたと証言している(2001年8月11日付本紙)。「けふ六日は、広島市内の町内会で一周忌取り越しの追悼会 記念行事をするところが多く」と、被爆11カ月の状況を記した。
米国が7月1日に中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁でした核実験にも言及し、こう続く。「生々しい記憶を新に呼びおこさせてゐるとき、あの日を偲(しの)ぶ貴重な記録写真を掲げて、世界平和の人柱となった人々を弔ふとともに、新憲法に規定される戦争放棄 念を強くすることに資さう」。「新憲法」は3月に草案要綱、4月に草案が示されていた。
記事には「写真はアメリカの某誌に掲載され」ともあり、「米誌が全世界へ紹介」の見出しもついた。ただ、実際の掲載例は確認されていない。連合国軍総司令部(GHQ)が45年9月19日にプレスコードを発しており、検閲をかいくぐるためだったとみられる。
掲載後、松重さんへ「GHQから原爆報道のかげをひくものとして呼び出しがきた」(88年刊の「消えたペン」収録の手記)。整理部の記者と2人で出頭したが、「たいした小言もなく、御幸橋で撮影の写真を提供することで許された」(同)という。
松重さんと山田さんの写真は、52年4月に占領が明けた後、世界的な米写真誌「ライフ」の52年9月29日号に掲載された。(山下美波)
(2025年7月6日朝刊掲載)