[被爆80年] 次世代へ 自分の言葉で 0歳で被爆の田中さん 母に聞いた体験初証言
25年7月5日
原爆の瞬間を覚えていないと、体験は語れないと思って生きてきた―。0歳で被爆した田中余央子(ようこ)さん(80)=広島市西区=は、閃光(せんこう)も爆風に飛ばされたことも記憶に残っていない。それでも「あの日」から80年の今年、初めて小学生への証言を決意。きっかけは、孫たちが取り組む朗読劇だった。
4日、なぎさ公園小(佐伯区)に田中さんの姿があった。「かすかな泣き声を頼りに母は床下に落ちた私を見つけだし、防空壕(ごう)へ走ったそうです」。母から伝え聞いた自身の被爆体験を孫たち5年生70人に語りかけた。
田中さんは牛田町(現東区)の自宅で被爆。生後9カ月で記憶はない。ただ、戦後に通った袋町小(現中区)の壁には、家族や知人の安否を尋ねる伝言が残っていた。国泰寺町の自宅前でマンホールのふたを開けると、1~2歳ほどの小さな白骨遺体があった。身近な原爆の痕跡も「あえて語るほどのことではない」と胸にとどめてきた。
心境の変化は今夏訪れた。なぎさ公園小に通う孫が、被爆80年を記念した朗読劇の練習をしていた。被爆者の岡田恵美子さん(2021年に84歳で死去)の証言に基づく台本を読むと、物心がついてから母に聞いた被爆体験が呼び起こされた。
「子どもたちに伝えてみたら」と娘に背中を押され、原稿用紙10枚につづった。今月に予定する朗読劇の披露を前に、被爆証言を聴く機会を望んでいた同小から講話の依頼を受けた。
15分の初証言。「あの時、母が守ってくれた私の命は、子どもや孫につながっています」と締めた。児童からは「原爆が落とされた日だけじゃなく、その後もずっと悲しいことが続いていたんだと伝わった」と感想があった。あの日を語れなくても、次世代に伝えるべき自分の言葉はきっとあると、今は信じている。(加納亜弥)
(2025年7月5日朝刊掲載)
4日、なぎさ公園小(佐伯区)に田中さんの姿があった。「かすかな泣き声を頼りに母は床下に落ちた私を見つけだし、防空壕(ごう)へ走ったそうです」。母から伝え聞いた自身の被爆体験を孫たち5年生70人に語りかけた。
田中さんは牛田町(現東区)の自宅で被爆。生後9カ月で記憶はない。ただ、戦後に通った袋町小(現中区)の壁には、家族や知人の安否を尋ねる伝言が残っていた。国泰寺町の自宅前でマンホールのふたを開けると、1~2歳ほどの小さな白骨遺体があった。身近な原爆の痕跡も「あえて語るほどのことではない」と胸にとどめてきた。
心境の変化は今夏訪れた。なぎさ公園小に通う孫が、被爆80年を記念した朗読劇の練習をしていた。被爆者の岡田恵美子さん(2021年に84歳で死去)の証言に基づく台本を読むと、物心がついてから母に聞いた被爆体験が呼び起こされた。
「子どもたちに伝えてみたら」と娘に背中を押され、原稿用紙10枚につづった。今月に予定する朗読劇の披露を前に、被爆証言を聴く機会を望んでいた同小から講話の依頼を受けた。
15分の初証言。「あの時、母が守ってくれた私の命は、子どもや孫につながっています」と締めた。児童からは「原爆が落とされた日だけじゃなく、その後もずっと悲しいことが続いていたんだと伝わった」と感想があった。あの日を語れなくても、次世代に伝えるべき自分の言葉はきっとあると、今は信じている。(加納亜弥)
(2025年7月5日朝刊掲載)