被爆80年託す想い 3564人の声から <2> 記憶を伝えない訳
25年7月8日
「触れたくない」口つぐむ
広島市西区の伊藤智子(さとこ)さんは被爆者アンケートに答えた2カ月後の5月15日、帰らぬ人となった。97歳。長年、記憶を伝えてこなかった。長男弘文さん(72)=佐伯区=の代筆で、こう吐露していた。「原爆のことはつらいばっかりで触れたくないという思いです」
「普段は明るい母でした」と弘文さんはしのぶ。ただ原爆の話は嫌った。3年前、母の記憶を受け継ごうと、市の「家族伝承者」になるために聞かせてほしいと頼んだ時も、最初は拒まれた。「やっと開いてくれた口も重かったです」
姉と妹を奪われ
智子さんは仲良し3姉妹の真ん中。早くに両親と弟を亡くし、祖父母に育てられた。被爆時は、宇品町(現南区)にあった広島女子専門学校(現県立広島大)の1年生。講堂で朝礼中、爆風に襲われ、顔や手に傷が残るほどのガラスを浴びた。自宅へ急ぐ途中にやけどを負った男子中学生に水を飲ませたり、近所でおびただしい遺体が焼かれるのを目撃したりしたらしい。
何よりつらかったのは、二つ上の姉と四つ下の妹を奪われたことだった。爆心地から260メートルの芸備銀行(現広島銀行)本店に勤めていた姉妙子さんは爆死。市中心部の建物疎開に動員されていた市立第一高等女学校(市女、現舟入高)1年の妹貞子さんは、遺骨も見つからなかった。
昨年から伝承者
「米国に殺された」。話しながら時折、顔をゆがめた母。酷な事をしたのかもしれない。「それでも聞けて良かった」と弘文さんは言う。懸命に生きていた10代のおばたち。その命を原爆に断ち切られた理不尽さに心底、腹が立った。昨年から伝承者として活動する。「こんな危うい時代だからこそ、母の代わりに伝えていきたいです」
他の回答者からは「いくら語ってもこの声が届くはずはないとあきらめていました」(85歳女性、広島市)「経験した者でないとわからない」(95歳女性、同)などの声も寄せられた。被爆者の肉声をじかに聞ける時間が限られる中、受け取り手の姿勢が問われている。(編集委員・田中美千子)
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「記憶あっても伝えず」1割
中国新聞、長崎新聞、朝日新聞3社による全国被爆者アンケートで、回答者3564人のうち3割が体験を「伝えていない」と明かした。
理由は「体験の記憶があいまいで思い出せない」が24・8%と最多。「機会がなかった」は13・2%と一定におり、「差別や偏見を恐れた」(9・2%)「つらくて思い出したくない」(7・7%)「話しても理解してもらえると思えない」(7・0%)だった。
年齢別にみると、「記憶があいまい」の8割超が84歳以下。老いは進み、今後はこの層が増えることになる。
また、全回答者のうち被爆当時の記憶が「ある」のに「伝えていない」人に限ると375人で、1割いた。クロス集計して分析した結果、理由は「機会がなかった」(20・8%)に続き、「つらくて―」(18・1%)「話しても―」(14・7%)。全回答者に占める割合に比べ高く出た。
「その他」を選んだ人の中には「友人・知人に話しても、関係ないという感じを受ける」との声も。「家族の間でタブーだった」「今年こそ孫たちへ話そうと思う」との記述もあった。
(2025年7月8日朝刊掲載)