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連載・特集

被爆80年託す想い 3564人の声から <3> 記憶なくとも

母の手記を手掛かりに

 あの頃の記憶はおぼろげだ。路上に転がっていた人たち。やけどした妹をうちわであおいだこと。その亡きがらを前に号泣する母の姿…。名古屋市の杉浦敬子さん(85)は、全国被爆者アンケートに「ほとんど記憶になく成長しました」と書いた。被爆時は5歳。それでも30年前から体験を語る。「愚かな戦争、惨めな戦争をくり返さない為(ため)に」と。

 手掛かりがある。母が老境に入ってから書き残してくれた手記だ。これによれば父の召集を機に1944年春、母は幼子3人を連れて名古屋から郷里の広島市へ移った。今の平和記念公園(中区)にあった旧天神町の借家へ。45年7月31日、空襲を警戒し、さらに南三篠町(現西区)の実家に移った。6日後、米軍が原爆を投下する。

 あの朝、母は実家に残り、子ども3人は祖母と散歩に出ていた。米軍機に気付き、家に駆け込んだ瞬間、杉浦さんは母とともに、崩れた壁の下敷きに。2歳の弟は縁側下に吹き飛ばされた。いずれも大きなけがはなかったようだ。一方、祖母におぶわれていた妹は後頭部や背をひどく焼かれた。まだ3歳。「お水ほしい」「お薬、買ってきてね」とせがんだ。11日、息を引き取った。

人には明かさず

 終戦後、父が復員し、一家は再び名古屋へ。杉浦さんはその後、戦争の話をした記憶がない。一時は外地にいた父も、つらい記憶を抱えていたらしい。

 だから被爆者、との自覚はなかった。向き合わされたのは22歳の時。母から「持っていることは黙っていなさい」と被爆者健康手帳を渡された。その時の心境をアンケートにつづった。「被爆者というレッテルを貼られた‼と」。差別が根強かった時代。夫や子ども以外には、被爆したことを伏せてきたという。

 転機は55歳の時。世話になっていた病院から証言を求められた。尻込みしたが、夫に「体験した者が話さないと」と背を押され、吹っ切れた。

繰り返さぬため

 今では手記を残した母に感謝し、語り継ぐことの大切さを実感する。「戦争が続いていますから。若い人に過去から学んでほしいです」

 記憶が「まったくない」と答えた証言者も多い。青森県弘前市の女性(81)は1歳の時に広島で被爆。「記憶がない者が体験を語る引け目はいつも感じてきました」と明かす。それでも「核兵器も戦争もない世界の実現に向けて諦めることなく歩みを進める者でいたい」と、母と姉の話から聞いた「あの日」を伝え続ける覚悟だ。(編集委員・田中美千子)

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それでも「伝えている」多数

 自らの克明な記憶を語れる被爆者は確実に減っている。中国新聞、長崎新聞、朝日新聞3社による全国被爆者アンケートで「被爆当時の記憶はありますか」と問うたところ、「まったくない」(27・6%)と「ほとんどない」(11・1%)が合わせて4割近くを占めた。

 そのはずで、被爆時年齢は1~5歳未満が36・3%と最も多く、0歳も15・1%。平均年齢は5・8歳だ。

 ただ記憶の濃淡にかかわらず、自身や家族に起きた惨事を語り継いでいる人が多くいる。記憶が「まったくない」で5割が、「ほとんどない」で6割弱が、何らかの方法で伝えていた。

 相手は圧倒的に子どもが多く、孫・ひ孫が続く。平和運動の集会で証言したり、手記や自分史を書いたりしている人も一定におり、「伝えておかなければ」という被爆者の使命感がにじむ。

(2025年7月9日朝刊掲載)

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